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毎日新聞2024/5/27 東京朝刊有料記事1019文字
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おなかの赤ちゃんに酸素や栄養を送る胎盤は、胎児を守る「関所」のようなもので、容易に毒物を通さないと信じられていた。だが、有毒な化学物質が、胎盤とつながるへその緒を通じて胎児の体に入り、健康被害をもたらす悲劇が起きた。水俣病だ。
水俣病は1956年に公式確認された。熊本県水俣市の海岸地域では、魚を多く食べる漁民らに「歩けない」「言葉が出ない」といった症状が多発していた。流産や死産が頻繁に起き、脳性まひのような症状の子どもも目立っていた。
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こうした子に「胎児性水俣病」という診断名が付いたのは、62年のことだ。行政はなかなか認めようとしなかったが、熊本大が患者の遺体を解剖し、メチル水銀が母親から胎盤を経由して子どもに影響を及ぼしたと判断。県の審査会は16人を胎児性患者と認定した。
徹底した調査で患者に共通の症状を見いだし、証明に尽力したのが、熊本大の若手医師だった原田正純さんだ。2012年に他界するまで、水俣病研究の第一人者として実態解明に生涯をささげた。
原点は、寝たきりの患者の往診に行った時の体験だという。
隣の家で、不器用な手つきで遊んでいる兄弟を見かけた。症状は似ていたが、母親に聞くと兄は水俣病で、弟は魚を食べていないから生まれつきの脳性まひだという。
母親は、自分が食べた魚の「毒」がおなかの子に悪さをしたと考えていた。集落には似た子がたくさんいると知り、一軒一軒訪ねて診察するうちに、原田さんはその感覚が正しいと確信する――。
こうしたエピソードは、幼少期を過ごした鹿児島県さつま町が今春制作した漫画「医師 原田正純物語」に詳しく紹介されている。
最近、ある研究者から一読を勧められた報告書がある。国立水俣病総合研究センターの研究会が99年にまとめた「水俣病の悲劇を繰り返さないために」。公害対策の最前線にいた元環境庁局長の橋本道夫さんを座長に、原田さんや環境学者らが議論を重ね、「我々は大きな誤りを繰り返しおかしてきた」と率直に反省を述べている。
これを読むと、海の汚染、漁獲の減少、鳥の落下、猫の狂死など、現場ではさまざまな「予兆」がありながらも、それらが放置されていたことが分かる。
報告書終盤の「総括的教訓」の章には「現場を直接見て、住民から真摯(しんし)に聞き取ることから始める」とある。患者に寄り添い続けた原田さんからの、今の環境省に向けた苦言のように思えてならない。(専門記者)