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「銃の出現に匹敵」 抗マラリア薬を生んだインディオの“秘薬”とは濱田篤郎・東京医科大学特任教授
2023年7月25日
マラリアは現代でも熱帯地方を中心に流行しており、毎年60万人以上が死亡しています。この病気は世界史の中に幾度となく登場し、歴史の流れを変える重要な役回りを演じてきました。とりわけ、南米の高山植物「キナ」から19世紀に抗マラリア薬「キニーネ」が抽出されたことで、以降の欧州諸国による植民地化が急速に進みます。その威力は「銃の出現にも匹敵する」とまで言われました。今回は抗マラリア薬誕生の経緯と、その後の歴史の変化について解説します。なお、抗マラリア薬とはマラリアの治療や予防に用いる薬という意味で用います。
ジントニックの正体
ヘミングウエイの小説に、第二次大戦中のカリブ海を舞台にした「海流のなかの島々」という作品があります。この中に主人公の画家が、酒場でジントニックを飲む場面が出てきます。バーテンダーが「あんた本当にその酒をうまいと思っているのかね?」と聞くと、画家は次のように答えます。
「私にはうまいのさ。キニーネの味がレモンと一緒になったところがいい。胃袋の毛穴だか何だか知らんが開いたような気がしてな。ジンを入れる酒の中じゃ、こいつが一番いけるな」(新潮文庫・沼澤洽治訳)
酒を愛したヘミングウエイが書くように、当時のジントニックにはキニーネが少量入っていました。キニーネとは抗マラリア薬で、20世紀初頭までアジアや米国の植民地に滞在する欧州人は、マラリアを予防するため、この薬を定期的に服用していたのです。インドではキニーネの炭酸割りが流行し、これがトニックウオーターの起源になりました。ある時、このキニーネの炭酸割りにジンを垂らす者がいました。これが苦みのきいた爽快な味で、ジントニックと呼ばれ人気のカクテルになったのです。現在のトニックウオーターには痕跡程度のキニーネしか入っていませんが、その苦みのルーツにはこの薬がありました。
平清盛もマラリアで……
マラリアは蚊に媒介される感染症で、赤血球にマラリア原虫が寄生し、高熱や貧血などの症状を起こします。現代でも熱帯や亜熱帯を中心に流行しており、発熱後は早めに治療しないと死に至ることが多い病気です。
マラリアで亡くなった歴史上の人物も数多くいます。たとえば紀元前4世紀、東方遠征に旅立ったアレキサンダー大王は、中東のバビロンでマラリアにより死亡したとされています。14世紀のルネサンス黎明(れいめい)期にイタリアで活躍した作家のダンテも、マラリアで亡くなりました。日本でも平清盛がマラリアで命を落としたとされています。このように多くの人々の命を奪ったマラリアですが、19世紀初頭からキニーネで治療できるようになったのです。
インディオの“秘薬”「キナ」
キニーネは、南米のキナという植物から抽出した薬です。キナはアンデス山脈の東側に自生する高山植物で、古くからインディオが解熱剤として用いていました。
新大陸では欧州人が侵入するまで、マラリアが流行していなかったと考えられています。16世紀にヨーロッパ人が新大陸を植民地化するのにともなって、その地では天然痘やインフルエンザが大流行し、先住民であるインディオの人口が激減していきました。この労働力減少を補うために、欧州人はアフリカから多くの黒人奴隷を新大陸に連れていきます。こうした黒人奴隷の中にマラリアの感染者が数多くいたため、マラリアが新大陸で流行するようになったのです。
このようにして新大陸でマラリアの流行がおこると、南米のインディオは、この熱病の治療に解熱剤であるキナを用いました。その結果、キナは熱を下げただけではなく、マラリアそのものも治療してしまったのです。こうしたキナの効果を、インディオたちは征服者たる欧州人に隠し続けました。しかし、17世紀中ごろになり、南米で布教活動をしていたイエズス会の宣教師がこの“秘薬”の存在を知り、この情報をヨーロッパに伝えたのです。
キニーネが植民地拡大の“武器”に
当時の欧州ではマラリアが風土病として流行しており、キナは飛ぶように売れました。しかし、キナの種類により有効成分の量が異なっていたため、治療に失敗するケースもありました。その後、19世紀初頭にフランスの薬剤師が、有効成分であるキニーネの抽出に成功してからは、安定した治療効果が得られるようになります。さらに、19世紀中ごろからキナの栽培が現在のインドネシアのジャワ島中部で行われるようになると、その供給も落ち着いてきました。当時、ジャワ島を領有していたオランダは、キナの販売で巨万の富を得たのです。
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こうしてキナから抽出されたキニーネが大量に流通するようになると、欧州諸国は、この薬を植民地拡大の道具として使うようになります。この時代までに欧州各国はアジアやアフリカの大半を植民地化していましたが、その奥地ではマラリアが大流行しており、立ち入ることができませんでした。しかし、キニーネが容易に手に入るようになると、この薬をマラリア予防のため定期的に服用して、奥地への植民地拡大を加速させていったのです。この結果、19世紀末までにアジアやアフリカでの植民地化をほぼ完了します。冒頭で紹介したジントニックがインドで誕生したのも、そんな時代のことでした。
「現代のキニーネ」 新型コロナのメッセンジャーRNAワクチン
欧州諸国は新大陸を植民地化する過程で“秘薬”のキナを発見し、この植物から抽出した抗マラリア薬のキニーネを用いて、マラリアを恐れることなく世界規模での植民地化を進めていきました。キニーネの果たした役割は「銃の出現にも匹敵する」との見方もあります。キナの発見が無ければ欧州諸国の発展は遅れ、アジアやアフリカも別の歴史を歩むことになったかもしれません。
20世紀に入ると、抗マラリア薬には「クロロキン」や「メフロキン」といった合成薬が使われるようになります。しかし、最近のマラリア原虫はこうした合成薬に次々と耐性を獲得しており、熱帯地域では今でも毎年2億7000万人の患者が発生し、60万人以上が死亡しています。そんな中で、不思議とキニーネだけは効果を維持しており、今でもマラリア治療の切り札になっているのです。
キナやキニーネの登場はマラリアの脅威を低減させたことで、欧州諸国による植民地争奪戦のゲームチェンジャーになりました。現代の新型コロナウイルスの流行では、「メッセンジャーRNAワクチン」が似たような立場にある医薬品だと思います。今回の流行がなければ、この新しい技術によるワクチンの実用化はかなり先になっていたことでしょう。今後、この技術は新型コロナ以外のワクチン開発にも応用され、さまざまな分野のゲームチェンジャーになるものと考えます。それが歴史の流れを良い方向に動かしていくことを期待したいと思います。
写真はゲッティ
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はまだ・あつお 1981年、東京慈恵会医科大学卒業。84~86年に米国Case Western Reserve大学に留学し、熱帯感染症学と渡航医学を修得する。帰国後、東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2005年9月~10年3月は労働者健康福祉機構・海外勤務健康管理センター所長代理を務めた。10年7月から東京医科大学教授、東京医科大学病院渡航者医療センター部長に就任。海外勤務者や海外旅行者の診療にあたりながら、国や東京都などの感染症対策事業に携わる。11年8月~16年7月には日本渡航医学会理事長を務めた。著書に「旅と病の三千年史」(文春新書)、「世界一病気に狙われている日本人」(講談社+α新書)、「歴史を変えた旅と病」(講談社+α文庫)、「新疫病流行記」(バジリコ)、「海外健康生活Q&A」(経団連出版)など。19年3月まで「旅と病の歴史地図」を執筆した。