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先月公開したコラム「マラリア以外も 『世界で最も恐ろしい生物』による病気」で、いくつかの致死的な感染症を媒介するヒトスジシマカ(=「アジアの虎」)、ネッタイシマカの生息地域が地球温暖化の影響を受けて世界各国に広がっているという話をしました。今回は、それら2種の蚊が引き起こすデング熱が世界各地で異常なほど増加していること、さらに妊娠している可能性があるなら海外渡航を控えた方がよいかもしれないことなどについて述べたいと思います。
感染者が急増し死亡リスクも上昇
前回のコラム「日本社会に浸透し始めている大麻 その恐ろしさ」で、私自身のタイ渡航のエピソードを紹介し「タイでは大麻ショップが異常なほど増えている」ことを取り上げました。街を歩けば急増している大麻ショップに驚かされますが、滞在時にタイの医療者から繰り返し聞かされたのは大麻よりも「デング熱の急増」でした。感染者の急増に加え、死亡リスクが上昇し、妊娠中の女性にとっては恐怖の感染症になっているというのです。
世界保健機関(WHO)によると、タイでは今年1月1日~6月21日に2万4030人以上の感染者と20人以上の死亡者が報告され、感染率は前年比4.2倍にもなります。私がタイに深く関わっていた2000年代前半にタイ人の医師たちとデング熱の話をすると、彼(女)らはそれほど怖い感染症という認識を持っておらず、「基本的には子供の病気。重症例はなくはないがまれ」と言っていました。ところが現在、現地の医療者と話すとそういう声は聞きません。重症例が増えているからです。
実際、タイではデング熱が子供の病気ではなくなっているのは間違いありません。医学誌「PNAS」に掲載された論文「タイにおけるデング熱患者高齢化を引き起こす複数のメカニズムの評価(Assessing the role of multiple mechanisms increasing the age of dengue cases in Thailand)」によると、1981~2017年に、重症患者の平均年齢が8歳から24歳に上昇しています。
我々の感覚からすると「重症患者の平均年齢が20代」と聞けば「妊娠に与える影響」が気になります。そして実際、妊娠中にデング熱に感染すると、胎児も母体も危険にさらされることが次第に明らかになってきています。
妊娠中に感染すると早産や低体重児のリスクに
従来、妊娠中のデング熱感染による危険性はさほど指摘されてきませんでした。同じような感染ルートの(つまり上記2種の蚊から感染する)ジカ熱が「妊娠中には注意して」と繰り返し忠告されてきたこととは対照的です。ジカ熱がブラジルを中心に流行した2016年、妊娠中に感染すると生まれてくる赤ちゃんの頭が小さい「小頭症」のリスクが生じることをコラム「ジカ熱拡大【後編】感染防止のカギと合併症」で紹介しました。小頭症で生まれてくると成長障害や知能低下を起こすことがあり、流行当時ブラジルで開催されていたオリンピックの観戦時に注意しなければならなかったのです。
他方、妊娠中のデング熱感染の危険性についてはこれまではあまり注目されていませんでした。しかし、各国の研究をみてみると妊娠中のリスクはあきらかであり、タイでは「妊娠中に感染してはいけない」という忠告にコンセンサスが生まれつつあります。
英国のサリー大学ではデング熱が妊娠に与える影響が詳しく研究されています。同大学が公開している論文によると、妊娠中の女性がデング熱に感染すると、自覚症状は軽度でも32週未満で出産する早産の可能性が77%高くなります。また、サリー大学の別の論文によると、妊娠中にデング熱に感染すると、低出生体重児、極低出生体重児、超低出生体重児の発生率がそれぞれ15%、67%、133%増加します。
妊産婦の死亡例も増加
そして、危険にさらされるのは胎児だけではありません。医学誌「Tropical Medicine & International Health」に掲載された論文「妊娠中のデング熱ウイルス感染による母体および胎児・新生児への転帰(Maternal and foetal-neonatal outcomes of dengue virus infection during pregnancy)」によると、妊娠中にデング熱に感染すると妊産婦死亡が4.14倍に増加します。また、医学誌「Scientific Reports」に掲載された論文「デング熱と妊娠および妊産婦死亡:データを分析したコホート分析(Dengue in pregnancy and maternal mortality: a cohort analysis using routine data)」によると、妊娠中に感染してデング出血熱に進行すれば妊産婦死亡が450倍にもなります。
さらに、医学誌「Archives of Gynecology and Obstetrics」に掲載された論文「妊娠中のデング熱感染の母体と胎児の転帰:大規模前向き記述的観察研究(Maternal and fetal outcomes of dengue fever in pregnancy: a large prospective and descriptive observational study)」によると、インドでは感染した女性の妊産婦死亡率が15.9%にも上ります。妊産婦死亡率を考慮するときには、医療のレベルや衛生状態、さらに貧困状況や食料供給事情などにも注意する必要がありますから、妊娠中の日本人の女性がデング熱に感染したとしても15.9%が死亡するとは言えませんが、この数字が無視できないほど大きいことに異論はないでしょう。
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ワクチンは承認されたが発売時期見通せず
感染症は予防が大切です。そしてワクチンが心強い味方になる感染症もあります。デング熱の場合はどうでしょうか。過去のコラム「人ごとでないフィリピン『ワクチン不信』と麻疹急増」などで指摘したように、サノフィ社のデング熱ワクチンはフィリピンで600人以上の小児の命を奪い、同国では発売禁止とされました。ちなみに、このワクチンは過去にデング熱に感染したことがある場合には有効で、実はタイでは希望すれば接種できる場合があります。ですが、デング熱に感染したことがない人が接種するのは危険です。日本では接種できません。
現在デング熱ワクチンで期待されているのは日本の製薬会社武田薬品が開発したTAK-003(商品名「QDENGA」)で、すでにタイ、インドネシア、ブラジル、EU、英国で承認されています。読売新聞によると、将来的には日本でも供給される予定だそうです。また、この記事には今年4月12日の時点でインドネシアでは「近く販売」と書かれています。
ところが、タイの医療者に聞いてみると同国では現在も発売されておらず、他国の現地メディアにも販売が開始されたという情報が見当たりません。また、同社は米国でも承認申請していましたが、7月にその申請を取り下げたと発表しました。目下、承認が取り消された国があるわけではありませんが、いつ販売開始されるのかが分からない状態です。
蚊取り線香や虫よけ剤 従来の対策徹底を
イカリジン配合の虫よけ剤。左から、お肌の虫よけプレシャワーDFミストプラスハーブ、お肌の虫よけプレシャワーDFミスト無香料=画像提供・KINCHO
ワクチンに期待できないのであれば「従来の蚊の対策」をするしかありません。総合診療医の私が院長を務める谷口医院では、毎日のように海外渡航の相談を受けます。渡航先はタイを含むアジアが少なくありません。私の助言の内容は、過去のコラム「蚊対策 四つの「決め手」【前編】」及び【後編】で述べたように、「近づかない!」「寄せつけない!(蚊取り線香を使う)」「 防護する!(虫よけ剤を使う)」及び必要なら「マラリア予防薬を使う」です。私自身も海外渡航時のスーツケースに蚊取り線香(日本製がお勧めです)とイカリジン(2015年に日本で承認された虫よけ剤。従来定番だったディートよりも最近は頻用しています)を常備し、海外滞在時には(朝のジョギングの時を除いて)長袖長ズボンを常時着用します。
イカリジン配合の虫よけ剤。左から、スキンベープミストイカリジンプレミアムハーブプラス、スキンベープイカリジンフレッシュサボンの香り、スキンベープイカリジン、スキンベープミストイカリジンプレミアム、天使のスキンベープミストプレミアム=画像提供フマキラー
現在デング熱は世界で急増しており、日本及び韓国・北朝鮮を除くアジア全域でメディアが連日のように感染者増加の報道をしています。南米でも感染者が増加しており、WHOの報告 によると、すでに今年の感染者は7月1日時点で約300万人に上り、ブラジルでは769人、ペルーでは327人が死亡しています。
タイを含む東南アジアや南米には若い女性が訪れる人気スポットが多数あり、また新婚旅行にこれらの地域を選ぶ人も少なくありません。旅行を楽しみにしている患者さんに対して、蚊取り線香や虫よけスプレーの話、さらにはプールやビーチでの危険性の説明ばかりをすることに気が引けないわけではありません。しかし、日ごろから診ている大切な患者さんに正確な情報を伝えるのは総合診療医の義務であり、患者さんには必要以上の恐怖を感じてほしくはありませんが、感染時の妊産婦死亡率が15.9%というこの数字を軽視するわけにはいかないのです。
特記のない写真はゲッティ
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谷口恭
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。