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毎日新聞2024/6/15 東京朝刊有料記事1900文字
今月1日、日本平和学会において、報告する機会があった。非会員ながら参加したのには理由があった。平和学からの問いかけに日本政治外交史研究はどのように応答すべきか、このような問題関心を持つようになったからである。ここでは報告内容を再構成しつつ、その後に考えたことを記す。
主題は軍事リアリズムに基づく平和主義である。平和と軍事は対照的に扱われる。「平和=理想主義」対「軍事=現実主義」の二項対立図式も根強い。平和運動家と軍事専門家の溝は深そうである。平和の理想主義と軍事の現実主義に架橋するにはどうすべきなのだろうか。平和の理念が失われる。戦争の現実が前景化する。そのような戦前日本にさかのぼって考える。
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石丸藤太海軍少佐は、退役後、軍事評論家として活躍する。多くの著作の一冊に「日米果して戦ふか」(1931年)がある。石丸はここで「排他的な国防論」「国家の安全は、国防のみ之(これ)を保障し得るとの偏狭な思想」を批判する。代わりに「政治の保障、外交の保障、友諠(ゆうぎ)の保障、正義の保障に信頼」する。石丸が訴えようとしたのは、いわば総合安全保障論の観点からの対米避戦論だった。
もうひとりの軍事評論家、武藤貞一(当時「大阪朝日新聞」論説委員)は、36年に「戦争」を刊行する。初版1万部は瞬く間に売れて、すぐに1万部の増刷となった。武藤に言わせれば、「東京市民は、戦争と云(い)えば駅頭の歓呼と街頭の提灯(ちょうちん)行列とばかり思いこんでいる」。それも無理はなかった。日清・日露の両戦争に勝ち、第一次大戦でも戦勝国となったからである。しかしこれからは違う。第一次大戦は史上初めての総力戦だった。つぎの戦争も総力戦だろう。それはこれまでの戦争とは比較できない惨禍をもたらす。「平たく云えば、ここまで来るともう戦争はできないという限度」に達した。総力戦の現実を直視した武藤は、「兵は凶なり。戦争はでき得る限り避けなければならぬ」と避戦論の立場に立った。
武藤の警告は、満州事変をきっかけに悪化した日中関係を修復しようとする機運の間接的な反映だった。翌37年2月成立の林銑十郎内閣は、4月に(中国北部を支配下に置こうとした)華北分離工作の否定、蔣介石政権による中国統一への公正な態度、政治的・軍事的要求の否定などを決定した。
しかし林内閣は短命に終わる。代わりに近衛文麿内閣が成立する。その翌月、日中間で軍事衝突=盧溝橋事件が起きる。軍事戦略上は不要不急だったはずの中国との全面戦争が始まる。
日中全面戦争は、武藤の予測とは異なり、少なくとも日本側にとって総力戦ではなかった。この年末に首都南京が陥落する。日本国内は提灯行列の戦勝ムードに包まれる。前線と銃後の間には大きなギャップがあった。前線では凄惨(せいさん)な戦争が続いていた。対する銃後は戦争景気に沸き立っていた。
日中全面戦争は長期化して終結のめどが立たなかった。それにもかかわらず、今度は石丸の警告を無視するかのように、アメリカとの戦争を始める。
真珠湾攻撃による緒戦の勝利は軍事リアリズムを見失わせる。戦争終結構想を持たない戦争指導は、戦局の急速な悪化にともなって、迷走を続ける。陸海軍が戦略を統合することはなかった。日本が国家的な破局に至ったのは、軍事リアリズムの欠如が大きな要因の一つだった。
以上の歴史が示唆するのは何か。ウクライナ戦争やガザ紛争が続くなかで、「台湾有事」や北朝鮮の「核・ミサイル」にどう対応すべきか問われれば、軍備拡充と答える。大方の国民世論はそうだろう。実際のところこれらの戦争・紛争は、軍事力の優劣で結果が決まりそうにみえる。
他方でたとえば「台湾有事」が起きる可能性はどれくらいなのか(軍事専門家の間でも意見は分かれている)、起きたとしたら日本はどのような状況に陥るおそれがあるのだろうか。
あるいは北朝鮮の「核・ミサイル」の戦略的な意図は何か。5月30日、北朝鮮が複数発の弾道ミサイルを発射した。防衛省は「詳細については現在日米韓で緊密に連携して分析中」と発表している。分析の結果の「詳細」はいつ国民に知らされるのだろうか。国民の緊張感は失われがちである。
さらに「敵基地攻撃能力」を整備すべきなのはそうだとしても、そのような能力が備わるまではどう対応すればよいのか。軍事リアリズムはこれらの問題に答えることができるにちがいない。
今の日本に求められているのは、軍事力の有用性を軽視する平和主義ではなく、国際安全保障政策をめぐる軍事リアリズムに基づく平和主義の構築なのである。(学習院大教授、第3土曜日掲載)