2>十字架の上の強盗の救いと行いが伴う信仰。<要約>
<ルカ23:39-43>.2024.6.16<主日>大阪愛する教会、金好日牧師。
救(すく)い論(ろん)を正しく知っていれば、私たちの信仰が安全であり、天国へ入れる祝福を受けるのです。
1>十字架の強盗は単に心で信じ唇で告白のみしたのに救われたから、私たちも心で信じ唇(くちびる)で告白さえすれば、御言葉通(ことばどお)りに従わず罪を犯(おか)しながら歩んでも救われ天国へ入れると主張する事は間違いなのです。
2><ローマ書7:14-25>の御言葉を間違えて理解(りかい)して使徒パウロも罪を犯しながら歩んだと告白したのだが天国へ入れたので、私たちも罪を犯して歩んでも救われ天国へ入れると主張する事は間違った言葉なのです。十字架の上の強盗の救いを総合的(そうごうてき)に説明(せつめい)すれば、
1>十字架の強盗(ごうとう)は真に悔い改めたのです。救いは悔い改めと信仰によって与えられるので、誰でも悔い改め信じれば救われるのです。しかし、この救いは永遠ではなく続けて罪と戦いながら悔い改めて信仰を成長させれば最終的(さいしゅうてき)に救われるのです。二人の強盗は初めは共にイエス様を罵ったのです。しかし、一人の強盗は心と考えを変えたのです。それで、罵(ののし)る事をやめてイエス様を弁護(べんご)したのです。2>救われた強盗は自分の罪を告白しました。私たちは自分がやった事で刑罰(けいばつ)を受けているのだから死んでも当然だと告白しながら唇で悔い改めのふさわしい実を結びました。
悔い改めとは心と考えを変える事ですが、悔い改めにふさわしい実とは唇と体で実を結ぶ事なのです。ところが、この強盗は十字架の上で釘付けられていたため唇でしか実を結べませんでした。しかし、大勢の人々はこの強盗は行った事が何もなかったにも関わらず、救われたと主張するのだが、この強盗は死ぬまで自分ができる事は考えと心を変えて唇で話す事が全てでした。ですから、自分で変えられる事は全て変えたのです。しかし、私たちはもっと変えられる事があるにも変わらず変えず、自分の罪を固執しながら歩んでいるのです。
3>十字架の上の強盗は真の信仰を持ちました。イエス様は数多くの奇跡を行いながら死んだ者を生き返らせるしるしを見せてあげたのだが、群衆たちはイエス様が天の父なる神様の御子であると信じなかったのです。しかし、十字架の上の強盗はイエス様が十字架の上に釘付けられ力なく死んで行く姿を見ていても信じたのです。また、イエス様が正しい方であると信じ、天の父なる神様の御国がある事を信じたし、イエス様が天の国の王である事を悟りました。
そして、イエス様の慈悲(じひ)と哀(あわ)れみを悟(さと)り、主の御国へ御出でになる時私を思い出して下さいと求めたのです。それは、イエス様が天の国の王であると認めた事なのです。事実、今日大勢の人が地獄へ行く原因は、イエス様を救い主として信じ、王としては信じないため従わず口先だけで主よ主よと言いながら、天の父なる神様の御心通りに行わないからなのです。ところが、この強盗はイエス様が天国の王であると悟りました。しかし、この強盗は贖いの意味を完全に理解し悟ったわけではないのです。福音を詳しく聞いた事がなかったのです。それなのに、どうして救われたのかと反論するかも知りませんが、イエス様の弟子たちも十字架の御恵みを悟らず、ただ、主はキリストであり、生きておられる天の父なる神様の御子であられる事を信じただけでした。
しかし、その時もペトロと弟子たちも皆救われたのです。ところが、今日はこのように救われる事はできないのです。旧約時代には予言を通して来たるべきメシアを信じたのです。しかし、今はイエス様の十字架の死と復活の力を知り信じなければならないのです。
4>十字架の強盗は死に際に救われたのです。人々は誰でも死ぬ前までは悔い改める機会があるのです。十字架の上の強盗は死ぬ前に悔い改めて救われ死んだわけなのです。
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わたしの罪を固執した事、心から悔い改めます。