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毎日新聞2024/6/21 東京朝刊有料記事4397文字
須田桃子・科学ジャーナリスト=猪飼健史撮影
生命科学の発展が止まらない。老化にあらがい、寿命を延ばし、いずれは不老不死を実現するかもしれない。生命の設計図とされるゲノムを書き換え、新しい生物を合成することも不可能ではなくなってきている。ただ、それに伴う倫理や社会の問題は残ったままだ。人はこのまま、生命を自在に操るすべを手にするのだろうか。
リスク議論、科学者が発信して 須田桃子 科学ジャーナリスト
合成生物学を取材するきっかけは2016年、米国の研究者が、解読した細菌のDNAをコンピューター上で再設計し、実験室で合成したDNAから新たな細菌を作ったことだった。ゲノムの解読が、新たな生物の設計も可能にしたことを意味する。生命科学分野に変革をもたらすパラダイムシフトだと思う。ちょうど同じ年、米国で第2のヒトゲノム計画が発表された。再設計した合成DNAを持つヒト細胞を作り出すというものだ。ヒトそのものではなく細胞を作る計画だが、細菌で成功したことが、将来はヒトに向かうのではないかと感じざるを得なかった。
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科学は基本的にはわれわれに恩恵をもたらすことが多い。ただし往々にして、倫理的な面で新たな課題を生んだり、社会との間であつれきが起きたりする。特に生命科学は進展が早く、社会の議論やルール作りが進む前に、技術が世に出てしまう。
合成生物学はまさに、そういう状況が生じやすい。医薬品の製造や、これまでにない素材の生産、臓器移植の分野などで応用が期待される。一方で、例えばヒトに感染しやすく重症化しやすいウイルスや細菌も作れるため、生物兵器の研究につながりかねない側面を忘れてはならない。米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)では、合成生物学分野に拠出する予算が年々増えている。もちろん、生物兵器の研究や保有を禁止する条約もあるが、冷戦下の旧ソ連では、禁止条約の調印後も生物兵器の開発が行われた。
米国では「DIYバイオ」といって、市民が自宅などで合成生物学に取り組む活動が盛んだ。市民が関心を持って科学に取り組むこと自体は健全だ。しかし大学や研究機関と違って管理や監視が行き届きにくく、思わぬ事故が起こる懸念もある。
中国の研究者がゲノム編集ベビーを作製した研究も、ヒトを対象にした合成生物学的な研究といえ、人間の尊厳に大きく関わる問題だ。医学的な妥当性や安全性、倫理的な議論や国際的な合意がないまま行われ、子どもを誕生させたのはまぎれもない暴挙だ。しかも、その研究者が刑期を終えたからといって研究を再開しているのは深刻な状況だ。
日本は、海外の倫理規定を参考にルール作りを進める傾向にある。しかし、そんな小手先の議論ではいけない。生命をどこまで改変してよいのか、それがヒトに応用されたとき、ヒトの尊厳にどう関わるのかという根源的な議論が欠けている。哲学的な部分の議論をもっと進めるべきだ。
それには、研究がもたらしうるリスクを科学者が予測して示すことが大切だ。自らの研究に責任を持つのであれば、積極的に発信し、議論の材料を提供すべきだ。科学研究は、地道な実験と考察を少しずつ積み上げていくものだ。社会が過大な期待を持てば、リスクを覆い隠す方向に突き進みかねない。研究のポジティブな面だけに注目せず、ネガティブな面にも関心を向けてほしい理由はここにある。【聞き手・渡辺諒】
若返り薬、生活の質向上のため アンニャ・クラマー 米ターン・バイオテクノロジーズCEO
アンニャ・クラマー 米ターン・バイオテクノロジーズCEO=同社提供
老化はとても大きな問題だ。2030年までに世界の6人に1人が60歳以上になると予測される。心疾患、目の病気、関節痛など、加齢に伴って生じる病気はたくさんあり、巨額の医療費がかかっている。このままでは医療保険を維持することも難しくなる。「若返り」ができれば、生活の質が高まって健康寿命が延び、こうした問題を解決できると考えている。
スタンフォード大の研究者である私たちの共同創設者は14年、若返りが自然の原理の中に備わっていることに気づいた。それは、生まれた赤ちゃんには親の年齢が引き継がれず、リセットされるということだ。iPS細胞(人工多能性幹細胞)の技術を使うと、細胞の年齢を完全にリセットするのではなく、10、20、30年といった部分的な若返りができる。私たちはこれを応用し、安全に細胞を若返らせる薬を開発した。マウスに移植したヒトの肌を、実際に若返らせることにも成功した。
ただ、私たちが目指すのは外見の若返りだけではない。加齢性の疾患の治療だ。例えば、関節が劣化して軟骨に炎症が起きたとする。現在の治療では炎症を止めるためにステロイドを使うが、それは症状を見えなくしているだけで、根本的な解決にはなっていない。私たちの薬を使えば、軟骨が若返って炎症が治まり、ステロイドの使用が減らせる。筋力が弱ったお年寄りの筋肉にこの薬を打てば、多くのケアがいらなくなる。
この技術は「抗老化」というとても大きな市場を見据えている。お年寄りが治療を受ければ老化に伴う症状を改善でき、若い人が使えば予防につながる。その人に合わせた「オーダーメード医療」が話題だが、私はこの薬こそが、幅広い治療ニーズを満たす、初めての真のオーダーメード医療だと思う。症例がさまざまな種類や段階であっても、その人に利益をもたらすことができるからだ。
これが実用化すれば、年を取ったからといって、必ずしも体が悪くなるわけではなくなる。80~90代になっても、孫を抱き上げたり学校に連れて行ったり、社会に参画したりできる。働く高齢者が増え、財政面で社会に貢献してもらえるようになる。私たちが描くのはそんな未来だ。加齢によって、働けなくなったり虚弱になったり痛みを感じたりするなら、こうした未来は実現できない。人々が健康的で若々しい生活を送れるようにすることが、私たちの夢だ。
永遠に生きられるようにすることが私たちの目標ではないが、細胞や組織などの問題を改善できれば、寿命も延びるだろう。ただし、一部の裕福な人だけがその恩恵を受けることがあってはならない。多くの人に届けられるよう、低価格にすることがとても重要だ。
老化のケアはとてもお金がかかる。高齢化社会の日本では、どのように健康を保つかをとても深刻に捉えており、大きな市場だと見ている。手ごろな価格にすれば、医療費を下げることができる。大手製薬会社と提携するなどして、低価格での製造を実現させたい。【聞き手・信田真由美】
生物界の論理逆転する危険 山極寿一 総合地球環境学研究所長
山極寿一・総合地球環境学研究所長=武市公孝撮影
老化を病として捉え、治療しようとする考えがある。生物界の原則である「世代交代」を破るような試みだ。まさに生物界自体が変わってしまう可能性がある。
寿命を延ばす技術は、人口と格差の増大につながる。ある個体は寿命を延ばすかもしれないが、別の個体は若いうちに死ぬかもしれない。若い世代はいつまでたっても下働きのまま力を発揮できない。世代交代がほとんど起こらない社会に重苦しさを感じ、かえって生きる希望がなくなるのではないか。
一番重要なことは、利他という倫理観だ。親は自分が死んでいくから、見返りを求めずに子に投資する。生物は子孫をたくさん残すことで、種の中でも種の間でも、ある程度競争して形質を獲得してきた。ずっと生きられるのなら、子孫を残すことに意味が見つけられず、むしろ子孫が邪魔になる。利他という生物界の論理がひっくり返り、失われてしまう。
抗老化技術には、寿命を延ばすことだけに注力する技術だけでなく、健康であるがために使う技術もある。僕だって健康なまま死にたいので、そうした技術を使うのは悪いことではない。ただ、健康であるということと、若いままであるということは違う。
老化は、身体機能が衰えていく悩ましい現象ではない。いままで過剰に使っていた身体を大事に使い、人々との付き合い方を変え、時間を大切に生きていく、楽しい現象だと思わないといけない。人というのは一人では生きられず、周囲があってこその存在だ。自分の体や精神が変わっていく老化とともに、周囲と影響を及ぼし合うことが、生物としての、社会動物としての人間だ。それを失ってはいけない。
人間というのは、身体も心も含めて総合的に考えなければならない。身体をロボット化してしまえば、ある意味若返り、寿命を延ばすことにもなる。脳を分離して保存し、身体だけ入れ替えるのは夢物語だが、できない技術ではない。脳をAI(人工知能)化してしまうことも行われつつある。身体の工業化がいろいろな形で進むだろう。
しかし身体は、心も含めていろいろなネットワークで働いている。ある部分だけでなく、全体として成長するはずだ。そこにアンバランスが生じると、どこかおかしくなってしまうのではないか。ある部分だけ若返らせたとしても、それはかえって異物になってしまう可能性があり、非常に危険だと思う。
技術自体の発展は抑えられなくても、技術を応用することに対する倫理を作らなければいけない。そのためには「人間とは何か」という哲学が必要だ。生物学者、歴史学者、哲学者、社会学者、芸術家などが分野を超えて未来を語り合うべきだ。
日本は世界一の長寿社会で、高齢化問題に関しては先進国だ。技術を発展させて老化を食い止めるという話ではなく、老いとは、死とは何か。それがなぜ人間の社会にあるのか。その意義を日本で改めて議論しないといけない。【聞き手・寺町六花】
揺らぐ「命の概念」
科学技術がもたらす光と影を追う「神への挑戦」。第2部では、受精卵にゲノム編集を施した子供を初めて誕生させた中国人研究者に単独インタビューを実施。米国や日本で進む抗老化研究や、ゲノムを設計して新しい生命を作り出す合成生物学など、最先端の生命科学分野を取材した。こうした技術が実用化すれば人類に大きな利益をもたらす半面、生命や社会の概念が覆りかねない懸念もはらむ。
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■人物略歴
須田桃子(すだ・ももこ)氏
1975年生まれ。早稲田大大学院修士課程修了。毎日新聞記者を経てニューズピックス副編集長などを歴任。著書に「合成生物学の衝撃」(文芸春秋)。
■人物略歴
アンニャ・クラマー(Anja Krammer)氏
1967年生まれ。米サウスカロライナ大学士(国際関係学)。米ベンチャー「ターン・バイオテクノロジーズ」CEO(最高経営責任者)。
■人物略歴
山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏
1952年生まれ。霊長類学者・人類学者。ゴリラ研究の第一人者として知られる。京都大教授、同学長、日本学術会議会長などを経て2021年から現職。