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毎日新聞 2023/9/21 08:00(最終更新 9/21 08:00) 有料記事 1864文字
海上いけすから回収した、死んだ「近大マグロ」の稚魚。えらや内臓を見て、病気やその他の異常がないか調べる=和歌山県串本町で2023年8月2日、菅沼舞撮影
「近大マグロ」を養殖する近畿大水産研究所・大島実験場(和歌山県串本町)の朝は、スキューバダイビングから始まる。
ウエットスーツに身を包んだダイバーが、深さ約10メートルのいけすに潜っていく。底に沈んでいるクロマグロの死骸を回収して、死因を調べるためだ。記者が訪れた8月初旬、手のひらサイズにまで育った複数のクロマグロが引き揚げられていた。
連載「サカナ新時代・養殖編」(全7回)は以下のラインアップでお届けします。
第1回 サーモン生み出す巨大な「プラント」
第2回 外資企業が狙う陸上養殖の付加価値
第3回 限界突破の「ゲームチェンジャー」
第4回 飛行機に乗る「近大マグロ」の卵
第5回 「完全養殖」に立ちはだかる壁
第6回 60年来の悲願マダコ養殖
第7回 カニを食べ、個室に住まうマダコ
「これは、エラが少し白っぽいね」。クロマグロ養殖の技術開発に取り組む近大水産養殖種苗センター長の岡田貴彦(ときひこ)さんはそう語ると、回収した稚魚のエラをめくるようにして触り、指で腹を開いて内臓を取り出した。いけすの編み目から入り込んだゴミをのみ込んでいないか確認するためだ。いけすの網に衝突したことが原因とみられる、顔が変形した稚魚もいた。
クロマグロを完全養殖する近大水産研究所では、鹿児島・奄美のいけすでクロマグロが産んだ卵を和歌山まで運んだ後、まずは実験場内の水槽でふ化させ、約1カ月かけて5センチほどにまで育てる。その後、海上のいけすに移し、出荷できる体長1メートル、体重40キロ程度まで3年かけて養殖していく。
「近大マグロ」の稚魚の標本。左の稚魚は異物をのみ込んで死んでしまった個体という=和歌山県串本町で2023年8月2日、菅沼舞撮影
しかし、ふ化した稚魚が出荷できる大きさまで育つ割合は1~3%という。岡田さんらによると、完全養殖の過程で、クロマグロの数が特に減ってしまうタイミングが3度ある。
まずは、ふ化してすぐの水槽で飼育している時期だ。泳ぐ力が弱いために水面に張り付いてしまう「浮上死」と、泳がない夜間に底に沈んで体が傷つき死ぬ「沈降死」がある。次が共食い。成長の差が生じるために、比較的大きく育った稚魚が、小さな稚魚を攻撃したり食べたりしてしまう。
最後が、海上のいけすに出した直後に起きる稚魚の大量死だ。いけすを囲っている水中の網に、クロマグロが衝突することが原因とみられている。いずれも対策を進めているが、抜本的な解決には至っていないという。
「人工種苗100%」の実現性は
餌に群がる「近大マグロ」の稚魚=和歌山県串本町で2023年8月2日、菅沼舞撮影
現状のクロマグロの養殖の多くは、天然の稚魚(天然種苗)を捕獲していけすで育てており、「消費型」と表現される。一方で、近大のように人工ふ化させた稚魚(人工種苗)を用いて、産卵と育成のサイクルを回す完全養殖は「循環型」とも言われる。資源の保全のために完全養殖が推奨されているが、クロマグロの数が激減する三つのタイミングはいずれも稚魚までの段階で、完全養殖だからこそ対応しなければならない問題なのだ。
食料の安定供給などを目的に国が2021年に策定した「みどりの食料システム戦略」では、クロマグロ、ニホンウナギ、ブリ、カンパチの4魚種について、50年に人工種苗の比率を100%にする目標を定めている。しかし、水産研究・教育機構の森広一郎まぐろ養殖部長は「クロマグロは人工種苗の生産効率に問題を抱えており、まだ完全養殖の普及が進んでいない」と指摘。戦略の実現性には疑問符が付く。
餌の課題もある。一般にクロマグロの養殖では、イワシやサバなどの生き餌が用いられている。この場合、クロマグロの体重を1キロ増やすのに、餌の魚が10キロ以上も必要になる。これは、ほかの養殖魚と比べても格段に効率が悪い。近大では、魚粉に植物油などを混ぜたペレット状の配合飼料を使って効率を高める対策を進めている。
養殖魚専門料理店「近畿大学水産研究所」で提供される、近大マグロなどの養殖魚のお造り盛り=近畿大提供
さらに近年は、串本の海上いけす付近の水温が上昇傾向だといい、岡田さんは「海水温が30度以上になれば、産卵や生息に影響が出る可能性がある」と危惧する。
稚魚の成育の難しさや、餌代など高コストがかかることが影響し、研究の一環として取り組む近大以外で、クロマグロの完全養殖に参入する企業は限られている。ただ、世界的なすしブームなどを背景に、クロマグロの完全養殖に対する期待は高まる一方だ。
岡田さんは「近大マグロができた当初は、脂が多いサバやイワシばかりを餌にしていたので、脂が乗りすぎて『全身トロ』と比喩されていた。それが今は研究の積み重ねで、身質のいいマグロを育てられるようになった。これからも餌や育種の研究を進め、養殖効率の良いマグロを生産したい」と語った。【菅沼舞】