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毎日新聞 2023/9/25 11:43(最終更新 9/25 11:44) 1849文字
1955年代後半の釜石製鉄所と駅周辺=三浦勉さん提供
「鉄は国家なり」。19世紀にドイツを武力統一した宰相、ビスマルクの言葉である。軍事増強に欠かせない鉄の生産は、国力の源とされた。
三陸の海に面する岩手県釜石市。山峡の地にあった寒村が、「鉄都」と呼ばれるに至る背景には、1853年の黒船来航で開国を迫られる中、大砲づくりのための洋式溶鉱炉の建設を急務とした、江戸幕府の思惑があった。
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長崎の炭鉱で働いていた父の転勤に伴い、釜石湾にそそぐ川の上流部にある大橋鉱山に移り住んだのは、敗戦後の復興期を経て、高度経済成長を突き進む1963年の春だった。石炭から石油への燃料の移行期で、炭鉱の閉山が相次いだ時代である。
寝台列車と汽車を乗り継いで3日間。釜石駅の改札を出ると、製鉄所の巨大煙突群と建造物が要塞(ようさい)のように連なっていた。製鉄所のある港から鉱山に至る一帯は、社宅が連なり、24時間操業の鉄都は隆盛を極めていた。
「盛者必衰」は、世の常である。経済成長の一方で円高が加速し、外国産の安価な鉄鉱石や鉄鋼材が国産に取って代わっていった。89年には溶鉱炉の火が消えて、93年には鉄鉱石の採掘も終了した。
橋野の山中にそびえるブナの巨木=岩手県釜石市で2023年8月29日午前10時39分、萩尾信也撮影
活気を失っていく町に、朗報が届いたのは、東日本大震災から4年後、2015年の夏だった。
ドイツで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で、同市橋野地区にある洋式高炉跡が、「日本の近代製鉄の先駆け」として遺産登録された、との報だった。
橋野鉄鉱山は、大橋鉱山とは山を隔てた別の峡谷の奥にあり、黒船来航から5年後の1858年に製鉄を始めた。市内の別の土地に大型炉が建設されるまでの36年間にわたって操業。「最盛時には、人夫(作業員)1000人、牛150頭、馬80頭が働いていた」との記録も残る。
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そして、2023年8月下旬。私は、近代製鉄以前に行われていた「たたら製鉄」の痕跡を探し、橋野周辺の山々を歩いていた。
たたら製鉄は、6世紀半ばの古墳時代の出雲地方(島根県)を起源とする。砂鉄や鉄鉱石を材料に、木炭を火力に、粘土製の炉で溶解して鉄を作る手法だ。
橋野の高炉跡をガイドしてくれた三浦勉さん=岩手県釜石市で2023年8月23日午後1時56分、萩尾信也撮影
案内役は、橋野鉄鉱山のガイドを務める三浦勉さん(71)にお願いした。橋野の青ノ木集落で生まれ、少年時代は山河が遊び場。山菜やきのこ採りを通じ、山を熟知していた。家は、鎌倉時代に北条氏に追われた三浦氏の末裔(まつえい)とも伝えられ、家の裏には「明和2(1765)年」と刻まれた墓が残る。
「祖父の代まで、製鉄で使うための炭焼きや、ベコ(牛)が引く木馬(きんま)(ソリ)で炭や物資を運んでいだ」「村の古老に、鎌倉時代より前に出雲の国から三十数人の武士がこの地にやって来て、鉄作りを伝えたと聞かされた」「高炉が現役のころは、人がたくさんいで、にぎやかだった。物心がつくころには閑散とし、高炉の跡は子供の遊び場になって、ウサギやキジを捕まえたり、イワナ突きをしたりしたもんだ」「中学に入るまでは、ヒエやアワが常食で白米は盆と正月だけ。ヤマモモや栗やキイチゴがおやつだった」
山歩きをしながら聞いた、三浦さんの思い出だ。
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橋野かいわいには、20カ所余にも上るたたら製鉄の跡がある。
「目印は、カツラの木だよ。『出雲風土記』(733年)に、シラサギに乗ってカツラの木に舞い降りた『金屋子神(かなやごかみ)』が製鉄の技術を伝えた、と書かれていてね。たたら製鉄の場所には必ず、ご神木としてカツラの古木が植えてあって、その周りには、炭焼きとたたらの窯の跡があり、ノロカス(鉱滓(こうさい))が落ちているよ」。三浦さん伝授の探索のこつだ。
林間を疾走する30頭近くの鹿の群れや、渓流を走る尺イワナの姿を横目に、クマザサをかき分け、カラマツやシラカバの森を抜けると、カツラの巨木があった。いずれも樹齢数百年を超える巨木だった。
「目をつぶると、当時の様子が浮かぶだろ。先祖代々、私たちは自然の恵みをいただきながら暮らし、感謝を込めてご神木をあがめてきた。私はそういう、営みも、みんなに知ってほしくてね」。三浦さんは、たたらの歴史や古老から聞いた昔話を文字に残そうと、数年前からパソコンに向かっている。
隆盛期には9万人を超えた「鉄都・釜石」の人口は3万人まで落ち込み、少子高齢化が進んでいる。
「来年は、山の中に忘れられたように残る樹齢700年余のブナや、500年の栗の木に会いに行くべ」
夏の終わりに、三浦さんと交わした約束だ。【客員編集委員・萩尾信也】