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毎日新聞 2023/9/30 18:08(最終更新 9/30 23:39) 有料記事 5408文字
気象学者の増田善信さん。「100歳になっても研究したいテーマはまだたくさんあります」と語る=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
柔らかい日差しの中で、好々爺(こうこうや)が住民の証言を記したノートをめくっていく。ゆっくりとした話し方で、滑舌は明瞭だ。柔和な表情を崩さないが、話が核心に触れたのだろう。そんな時、まなざしが鋭くなる。肺炎をこじらせて5年前に入院した。左目の視力が落ち、小さい字はほとんど見えないが、記憶力は健在だ。
降雨範囲再調査、司法動かす
東京都狛江市で暮らす増田善信(よしのぶ)さんは今年9月11日、100回目の誕生日を迎えた。百寿の気象学者である。
気象庁を60歳で定年退職した後、広島に投下された原子爆弾による「黒い雨」が降った範囲を見直す調査に没頭した。報酬はなく、ボランティアだった。
原爆投下直後の降雨図を示しながら「黒い雨」の説明をする増田善信さん(左)と村上経行さん。1987年に広島県で撮影されたとみられる=県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会提供
増田さんの調査は国の施策を変え、放射性物質を含んだ雨を浴びたことで健康被害に悩む多くの人を救う一助となった。
「気象庁ではずっと天気の研究をしてきました。黒い雨の範囲を調べることは私の専門とは重ならない部分もある。でも、そんなことは関係ないのです。自分が疑問に思ったことを明らかにしたかったのです」
その当時、国は雨が降った地域を特定し、援護対象区域に指定していた。しかし、区域外でも雨が降っていたとする証言は多かった。退職してから時間に余裕があった増田さんは現地で聞き取り調査を行い、援護対象区域よりも大きな範囲の降雨図を作り上げた。
その調査結果は、区域外の住民が被爆者認定を求めた裁判で証拠として提出された。国には一切相手にされてこなかったが、2021年になって裁判所に信用性が認められた。
この時、増田さんは97歳だった。「私が生きている間に評価されたのは幸せでしたね」
今も研究を続けている。毎日午前8時に起き、午前10時から研究を始める。ここ数カ月かけて調べているのは1950年代に行われた水爆実験による放射能の影響だ。米国政府の関係機関のホームページをチェックし、当時の放射線量の推定値をパソコンに打ち込んでいく。
健康は万全とは言えないが「今も興味のある研究や調査を続けています。これほど幸せなことはないです」と意気盛んだ。
医師断念し、気象の道へ
インタビューに答える増田善信さん=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
23年、京都府に生まれた。裕福な家庭とは言えなかった。旧制中学に進学したいと告げると、自作農だった父は地主から田んぼを新たに借りた。
「その田んぼで取れた35俵のうち25俵を荷車に積み、小作料として父と一緒に地主に渡しに行きました。残った10俵が中学に行くための資金になったのです」
医師を目指したが、受験に失敗。浪人する余裕がないため、41年春、通っていた中学の近くにあった宮津観測所(京都府宮津市)に入った。天気に関する仕事をしながら再び医療系の大学を受験するつもりだった。
腰掛けと思っていたから観測所の仕事は退屈に感じた。しかし、その認識を一変させる出来事があった。
ある日、太陽の周りに光の輪が発生する「ハロ現象」が観測された。その一報を聞きつけた所長や数人の職員が庁舎の屋上に一斉に上がり、何やら観測を始めた。やがて光の輪が刻々と変化していく状況が10枚の克明な図で記録された。
「驚きました。見たこともないような太陽の様子が、紙と鉛筆で見事に再現されているのです。それで気象の仕事の魅力に気づいたのです」
気象学者の増田善信さん=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
増田さんは医師になることをやめ、気象の道に進むことを決断する。49年に気象庁の前身である中央気象台の気象研究所に進むと、等圧線を正確に描くための研究に取り組んだ。59年に移った電子計算室(現・数値予報課)では、台風の進路について調査を続けた。
同時に力を注いだのが労働組合活動だ。6年間にわたって非専従の組合幹部となり、全国を回って職員の待遇改善などを訴えた。
「組合活動をしていても、庁内で結果を出さなければと思っていました。酒は好きでしたが、家で飲むのはやめました。帰宅してから午後9時までは家族と過ごし、そこから午前2時までを研究の時間に充てたのです」。手を抜かない日々を送った。
気象予報は誰よりも詳しいと自負していた。台風の進路予想に関する論文は日本気象学会賞(59年)に選ばれ、61年には東京大から理学博士を授与された。
同期や後輩が次々と幹部に登用される中、出世は無縁だった。「上司であれ、誰であれ、正しいと思えば自分の意見は曲げることはなかった。そういうところが敬遠されたかもしれません」。冷静な自己分析だ。
天気予報の要となる電子計算室には誰よりも長く在籍した。「職員名簿は私が一番上。歴代の気象庁長官は、かつては部下でした」。役職が上がるよりも自身の研究を進めることに熱中し、在職中には複数の著作も出した。84年4月に定年退職。「気象研究所の室長」が最後の肩書になった。
「悠々自適な生活を送るつもりはなかったですね。自分なりの研究を進めていこうと思っていました」
黒い雨の調査にのめり込んだのは戦争体験も影響している。戦地に向けて飛び立つ爆撃機の操縦士に航路の天気を教えてきた。むなしさを感じても、戦争はことごとく正しさを否定する。だからこそ、戦後は自分で正しいと思ったことを信じ、行動してきた。
「区域外」の人たちの訴えに
気象庁を定年退職してから約1年4カ月が過ぎた夏の日、増田さんは広島市にいた。1985年8月に開かれた原水爆禁止世界大会の分科会で、核実験と気候変動の関連をテーマに講演するためだ。7月に出版した「核の冬―核戦争と気象異変」という本が好評で、講演の機会を得た。
気象学者の増田善信さん=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
壇上では、原爆投下後に降った「黒い雨」にも触れつつ、核戦争の危機を聴衆に語った。拍手を浴びて席に戻ると、会場にいた被爆者の村上経行(つねゆき)さん(2011年に93歳で死去)から話し掛けられた。黒い雨の範囲についての疑問だった。
黒い雨を巡っては、45年8~12月に広島管区気象台(当時)の宇田道隆技師が聞き取り調査を行い、爆心地北西部で、卵形の区域に雨が降ったとする調査結果をまとめていた。それは「宇田雨域」と呼ばれ、区域内で一定の障害があれば援護対象となった。
しかし、黒い雨の実態を調べる団体の事務局長だった村上さんは、住民の証言から卵形の区域より広い地域に雨が降ったと確信していた。区域外を援護区域に含めるよう行政に訴えていたが、宇田雨域の存在を盾に拒まれていた。
「あなたは気象学者ですよね。雨が卵形に降ったとする宇田雨域はおかしいと思いませんか」。村上さんの率直な問い掛けに増田さんはショックを受けた。積乱雲を伴って降る雨は不規則な形を取るのが気象学の常識だった。黒い雨を浴びながら援護を受けられない人がいるとすれば、これほど不平等なことはない。「調べてみます」。気が付くと、そう即答していた。
「黒い雨」訴訟の控訴審判決で、全面勝訴と書かれた紙を掲げる原告団の弁護士。左は原告団長の高野正明さん=広島市中区で2021年7月14日、山田尚弘撮影
しかし、専門外で調査手法は見当が付かなかった。悩んだ末、たどり着いたのが被爆者の手記。ページをめくりながら黒い雨の記載の有無を確認することにした。
最初に読んだのは広島市発行の「広島原爆戦災誌」(全5巻)。毎日、図書館に通い黒い雨の証言がある地点を地図に記した。「雨の記載があるかは証言を最後まで読まなければ分からない。つらい話ばかりで涙が出ました」
他の証言集も読み込んだ上、87年5月に宇田雨域より2倍の広さがある雨域を発表。すると自宅に電話や手紙が相次いだ。「お叱りばかりでしたね。『私がいた場所にも雨が降っていた』『もっと調べろ』と。こうなれば現地に行って調べるしかありません」
増田さんは村上さんに協力を仰ぎ、6月13日と14日に広島県で聞き取り調査を実施することにした。最初の会場は湯来町(現広島市)にある湯来東小学校だった。増田さんは集まった人たちにマイクを渡し、被災直後の状況をそれぞれ説明してもらった。大勢の前で話せばうそはつきにくいし、聞いている人に忘れていた記憶を喚起させるきっかけになると思ったからだ。また、その日の行動を時系列に沿って話すようお願いした。
湯来町や豊平町(現北広島町)など調査地5カ所で、計72人が証言した。さらに会場でアンケート用紙を約1300枚配り、証言できなかった人の声も集めた。8月5日にも現地で追加調査した。
現地調査を終えると、自宅1階の8畳ほどの書斎の床に、アンケート用紙を地区ごとに重ねて並べた。そして、大学ノートの左ページに終戦当時の地図(5万分の1)を集落ごとに分けて貼り付け、黒い雨が降ったとの証言があった地点を一つずつ落としていった。ノート右側には証言内容を書き込んだ。
だが、黒い雨が降った区域の把握を難しくしたのが、戦後に行われた市町村合併などによる町名変更だった。住民の多くは新旧の住所を入り交じった形で証言しており、場所の特定に手間取った。村上さんの団体に頼んで対照表を送ってもらい、一つ一つ地点を確認していった。
現地調査をまとめた増田善信さんの大学ノート。左ページに集落の地図を貼り付け、黒い雨の証言があった地点を赤い丸で示していった=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
「アンケート用紙は1000枚以上ありました。その住所が新しいものか古いものかを対照表を使ってチェックし、改めて村上さんに再確認してもらいました。とにかく数が多かった」と振り返る。
調査の成果は88年3月に「増田雨域」として報道機関に発表した。89年2月には追加データを盛り込んだ論文を出して決定版とした。最終的な調査資料は宇田雨域の170点を大幅に上回る2125点。黒い雨の範囲は宇田雨域の4倍に達した。
黒い雨の調査には膨大な時間がかかったが、金銭的な見返りは一切受けなかった。背景には「正しいことが通る世の中であってほしい」という強い思いがある。
自身の戦争体験、原動力に
原点は戦争体験にさかのぼる。41年12月に太平洋戦争が始まると、天気予報は機密扱いとなった。当時、増田さんは宮津観測所(京都府宮津市)で働いていた。「宮津は漁師町なのでよく漁師と話すことがありました。でも、戦争になると、たとえ台風が来ると分かっていても言えないのです。彼らにとっては命に関わることなのに……。なぜなのかと悩みました」
海軍に入り、45年6月に島根県出雲市の基地に配属された。沖縄に向けて飛び立つ爆撃機の操縦士に、航路の天気を教えるのが仕事だった。既に戦況は悪化しており「勝てない」と思った。実際に多くの爆撃機が基地に帰ってこなかったが、やりきれなさ、むなしさを口にすることは許されなかった。
「戦争になると本当のことは誰も言えず、正しいことは行われなくなります」。だから戦後は正しいと思ったことを口にし、実行してきた。「黒い雨を巡る行政の対応は私から見ても不平等なものでした。何か手助けがしたい。その気持ちだけで調査を続けました」。黒い雨に関わったのは宿命だったのかもしれない。
正しいことだと信じて、増田雨域を発表したが、行政は動かなかった。被害者の貴重な時間が過ぎていく過酷な状況を変えたのが司法だった。
黒い雨を浴びて健康被害を受けたとして、援護対象区域外にいた住民らが15年に提訴。原告は20年に広島地裁で勝訴し、21年の高裁でも勝って原告全員が被爆者として認められた。政府は上告を断念し、判決は確定した。
地裁判決は増田雨域について「豊富な資料に基づいており、有力な資料として位置づけることができる」とし、高裁判決も「(増田雨域に)雨が降った蓋然(がいぜん)性(確実性の度合い)があると言うべき」だと評価した。増田雨域は有力な根拠の一つとなり、原告勝訴に大きく寄与した。
一連の裁判で原告団長を務めた高野正明さん(85)は「増田さんはいつも自費で広島を訪れ、徹底的に聞き取り調査を行ってくれました。増田雨域の存在は大きく、裁判でも力になった」と感謝する。
「黒い雨」の援護対象区域について意見が交わされた有識者検討会に出席した増田善信さん(手前右)=東京都千代田区で2020年11月16日午後1時33分、小山美砂撮影
「正直、もう駄目かと思っていました」との言葉を漏らした増田さんも勝訴した喜びをかみしめた。調査を始めて36年。正しさが公に初めて認められた瞬間だった。
「市民の力で社会は変えられることを(97歳になった)この年で改めて実感できました。黒い雨を巡っては、村上さんをはじめ地元で正しいことを言い続けた人たちがいました。彼らの強い思いが国を動かしたのです」
増田さんは今、国の有識者検討会の委員を務めている。1審の広島地裁判決後に設置された検討会で、黒い雨の援護対象区域の再検証がテーマだ。90歳を超えた高齢者が委員に選ばれるのは極めて異例だが、過去6回の検討会には全て出席し、被爆者の側に立った意見を言い続けている。
異常気象や温暖化もライフワークとして複数の著作を出した。太平洋戦争の「語り部」活動にも取り組む。
日本学術会議の会員候補6人を推薦通り任命するよう求める署名を提出するため、内閣府に向かう増田善信さん(左から2人目)ら=東京都千代田区永田町1で2021年4月19日、池田知広撮影
日本学術会議の推薦候補を政府が会員任命しなかった問題では反対の声を上げ、ネットを通じて約6万2000筆の署名を集めた。同会議の前身の学術研究会議は戦争に加担した過去がある。その反省から再出発した経緯があるだけに、増田さんは憤りを感じたのだ。
20代の時に戦争で経験した不条理への怒りは、年月を重ねても消えることはない。
「正しいことが実現するには時間はかかります。でも、おかしかったら声を上げ、行動に移す。それを続けることが大切なのです」
100歳の科学者の信念は固い。
川上晃弘(かわかみあきひろ)(東京社会部)
気象学者の増田善信さんにインタビューする川上晃弘記者=東京都狛江市で2023年8月26日、前田梨里子撮影
1998年入社。宇都宮支局、神戸支局などを経て現職。事件取材が長い。3年間にわたり副部長(デスク)をしていたが、今年度から専門記者になった。