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毎日新聞 2023/11/9 09:00(最終更新 11/9 09:00) 有料記事 1869文字
ミューオンg-2実験の意外な値
物質の最小単位、素粒子。そのふるまいを説明する「標準理論」は、20世紀物理学の到達点とされている。だが、この理論で説明のつかない実験データが8月、米国の研究所からもたらされた。物理学の常識を覆す世紀の大発見となるのだろうか。
完成したはずの「標準理論」
いきなり難しい単語が並んだので、簡単に説明しよう。まず「素粒子」。身の回りのモノは「原子」という小さな粒でできている。その原子は「陽子」「中性子」「電子」というもっと小さな粒に分けられる。だがこれが最小ではない。陽子と中性子は三つのさらに小さな粒で構成される。それが素粒子だ。
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この三つも含め、素粒子には17種類ある(電子もその一つ)。2012年に17番目の素粒子「ヒッグス粒子」が見つかり、最後のピースが埋まった。
ヒッグス粒子の発見で完成をみたのが「標準理論」だ。素粒子のミクロな動きや相互作用をほぼ矛盾なく説明できる強力な理論で、それで説明のつかない現象となると、新たな物理理論が必要となる。
8月10日、米フェルミ国立加速器研究所のチームが発表した実験データはそんな奇妙な現象だった。
大きな「ズレ」
チームが行ったのは「ミューオンg-2実験」(-はマイナス)という、素粒子の一つ「ミュー粒子」(ミューオン)の磁気的な強さを測定する実験。光速近くまで加速したミュー粒子を直径14メートルのリング状の装置に入れて測定したところ、標準理論に基づく計算値とズレていたのだ。
チームは21年にもズレを観測したと発表した。だが当時は、データが正しい確率は99・997%。今回は精度を高め、99・9999%を上回った。これは素粒子物理学の世界で「新しい何かの発見」とみなされるほどの確からしさ。それだけ理論上あり得ないデータだった。
ズレが本物だとすると、人類がまだ知らない素粒子や力などが存在する可能性が浮上し、標準理論は修正を迫られる。もっとも、世界の複数の研究機関が計算と測定を進めており、ズレが確定したわけではない。今回の発表も6年かけて集めたデータの前半の解析結果で、さらに実験を続けて計測精度を高める。最終結果は25年に出る見込みだ。
ミュー粒子計測、日本でも
「新物理」に迫る実験、日本でも①
ミュー粒子の磁気的な強さを求める試みは、茨城県東海村の高エネルギー加速器研究機構などの施設「J-PARC」でも始まっている。米国と異なる手法で計測することで、それぞれの正しさを検証し合うことができる。
J-PARCでの実験は、加速したミュー粒子を冷やして一旦速度を落とす点が特徴だ。従来は1キロ先の標的に粒子を当てようとすると10メートル幅の誤差が生じたが、これによりわずか誤差1センチ幅に絞り込んだ。その分、精度の高いデータを得られやすくなったという。
チームは2月、ミュー粒子の冷却実験に成功。25年度に加速させ、28年度からデータ収集を目指す。実験代表を務める三部勉・同機構教授は「新しい物理法則の存在が見つかる可能性がある」と期待を込める。
「新物理」の正体を探して
そもそも、研究者たちはなぜ標準理論を超える法則を探すのだろうか。その理由は、この宇宙に標準理論で説明のつかない現象が存在するからだ。全宇宙の95%以上を占めるダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーは標準理論で説明できない。身の回りの物質と性質が逆の「反物質」がほとんど存在しない理由も同様だ。標準理論は不十分であり、それを超えた「新物理」の構築が求められている。
「新物理」に迫る実験、日本でも②
同機構は、新物理の正体を直接探すプロジェクトにも着手している。茨城県つくば市の施設で進む「ベルⅡ実験」だ。26の国と地域、115の研究機関から約1000人の物理学者や技術者が参加する。外円周3キロの円形の加速器内で電子と陽電子(プラスの電荷を持つ電子)を高速で衝突させ、衝撃で生まれる素粒子を高さ8メートルの大型検出器で観測する。極めて少ない確率だが、その中に、新たな素粒子や未知の力の痕跡が現れる可能性があるのだ。
前身のベル実験(1999~10年)は素粒子の数を予測した「小林・益川理論」を実証し、小林誠、益川敏英両氏のノーベル物理学賞(08年)につながった。ベルⅡ実験は加速器の性能をベル実験の約40倍に高め、約50倍のデータを得る計画だ。19年から本格稼働し、24年夏には実験結果の発表を予定しているという。
実験を進める石川明正・同機構准教授は「仮に新たな物理が確認されたら、ノーベル賞級の発見になるかもしれない」と期待を膨らませている。【松本光樹】