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毎日新聞2024/6/30 06:00(最終更新 6/30 06:00)有料記事2345文字
東京都内で談笑する八木芳子さん(右)=八木功さん提供
戦争が1人の女性の運命を変えた。中国人の両親のもとに生まれ、中国で働いていた日本人と結婚するが、戦火の中で離ればなれとなった。窮乏生活のなかで中国人と再婚。病気になって初めて日本の地を踏んだとき、帰国していた元夫と再会する――。過酷な環境を懸命に生き抜いた83年の人生とは。
生きていくための決断
彼女は中国名で劉芳貞という。1914年5月、旧満州(現中国東北部)旅順の農家で生まれた。
20歳のとき、近くで日本料理店を経営する愛媛県出身の八木龍平さんと結婚し、八木芳子となる。
店には多くの客が訪れ、いつも10人近い従業員が働いていた。ピアノが置かれ、自宅には当時珍しい自転車もあった。
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34年には長男が生まれ、その後も3人の子宝に恵まれた。
先日、私(記者)は中国料理チェーン「ニーハオ」の社長、八木功さん(89)の記事を書いたが、この長男とは功さんのことである。
平和な日々は、戦争によって暗転する。
料理店は40年ごろに旅順から内モンゴルに移転していたが、日中戦争の激化に伴い、市街地でも銃撃戦が起き始めていた。
45年6月、店を守る龍平さんを残し、彼女は4人の子供を連れて旅順に戻ることになった。旅順は内モンゴルよりも安全と考えられていた。龍平さんは47歳、彼女が31歳の時だった。
八木芳子さんは生涯で7人の子供を産んだ。右端が長男の八木功さん=八木功さん提供
しかし、たどり着いた場所で想像もしなかったことが起きる。
旅順に到着して2カ月後の8月9日、ソ連軍が満州国に侵攻。5人の住んでいた家はソ連兵に土足で乗り込まれた。
命の危機を感じ、子供とともに郊外にあった母の実家に身を寄せた。龍平さんとは音信不通となった。
銀行は活動を停止し、龍平さんから手渡された預金通帳を示しても現金を引き出せなくなった。竹筒にいれていた小銭が全財産だった。
生計を支えるため、彼女は清掃作業員として働き、11歳の功さんもごみ捨て場で食料をさがした。裕福だった生活は一変した。
日本人と中国人の立場は逆転し、日本人というだけで暴力をふるわれることがあった。
彼女はこの土地で日本人として生きていくのは難しいと考え、4人の子供にそれぞれ中国名をつけた。そして、自身も「劉芳貞」に戻ることを決意する。
中国人男性である劉述芝さんと再婚したのは50年ごろだ。龍平さんの行方が分からない中、女手ひとつで子供を育てるのは無理だ、と周囲に言われていた。
夫は腕のいい真面目な大工で「毛沢東に表彰された」というのが自慢だった。性格も穏やかで優しかった。
しかし、子供が新たに3人生まれて9人家族となり、ぎりぎりの生活は続いた。
彼女は毎日、家事と子育てに追われた。休みなどなく、日帰り旅行さえ一度も行く余裕はなかった。
一方、子供たちへの教育には力を入れ、夫と功さんが稼ぐ給料の多くを学費に充てた。大学に進学した子供もいた。
突然届いた日本からの手紙
生まれたばかりの子供を抱く八木芳子さん。1940年ごろに撮影されたとみられる=八木功さん提供
転機となったのは66年に届いた龍平さんの手紙だ。龍平さんは終戦直後、内モンゴルから日本に帰国していた。手紙には「日本で一緒に暮らそう」と書かれていた。
78年から79年にかけ、功さんら4人の子供は次々と日本に「帰国」したが、彼女は中国に残った。
日本に行くつもりはなかった。再婚した夫との生活があるからだ。
しかし、81年2月、病院で思いがけない診断結果を受ける。末期がんで「余命3カ月」という。
伝え聞いた功さんは医療体制がしっかりしている日本で手術をすれば助かるのではと考えた。厚生省(現厚生労働省)に受け入れ申請を出し、彼女は突如、日本に来ることになった。
81年4月。やせこけた彼女を乗せた飛行機は成田空港に到着した。出迎えた人の中に、龍平さんの姿があった。36年ぶりの再会だった。すでに龍平さんは83歳、彼女は67歳になっていた。
龍平さんは涙を見せ、彼女も再会を喜んでいるようだった。しかし、がんで体調も悪く、ほとんど会話はなかった。
功さんらの尽力で彼女は東京都内の病院で胃を全摘する手術を受け、奇跡的に回復した。
退院後、龍平さんから「一緒に住まないか」と誘われた。中国に夫がいる彼女が、この言葉をどう受け止めたのかは分からない。ただ、彼女はその誘いを拒否することはなかった。
年老いた2人は東京・蒲田の小さなアパートで暮らし始めた。
家族の帰国を待ちわびた八木龍平さん=八木功さん提供
日本語はほとんど忘れていたが、龍平さんと一緒にいることで少しずつ話せるようになった。彼の生まれ故郷である愛媛県なまりの日本語だ。彼女は再び「八木芳子」に戻っていった。
しかし、そんな生活もわずか数カ月で終わる。龍平さんは81年12月に倒れて意識不明となり、82年1月に亡くなった。
龍平さんの最期をみとったのは彼女だった。
二つの墓に眠る
83年、今度は夫の述芝さんが中国から日本にやってきた。「中国に帰りたい」とさみしがる彼女のため、功さんが呼んだのだ。
彼女は今度は「劉芳貞」として、夫と一緒に暮らすようになる。
2人は日本で16年にわたり同居した。そして、彼女は97年、述芝さんに見守られながら83歳で亡くなった。
述芝さんもその2年後にこの世を去っている。
母と2人の父について、長男の功さんはこう話す。
「母がどちらを愛していたか? それは私には分かりません。私からみれば、2人とも優しくて素晴らしい父でした。母は毎日の生活で精いっぱいで、苦労の連続だった。それでもいつも懸命に生きていた。2人の夫に対しても同じだったと思います」
龍平さんの墓は千葉県成田市にあり、同県佐倉市には述芝さんの墓がある。彼女の遺骨は二つに分けられ、夫と元夫の墓にそれぞれ納められた。
【社会部東京グループ・川上晃弘】
<※7月1日のコラムはデジタル報道グループの國枝すみれ記者が執筆します>