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毎日新聞 2024/1/9 08:00(最終更新 1/9 08:00) 有料記事 2252文字
サシバエ被害に悩む酪農家の白川順二さん(右)と話をする九州大大学院の松尾和典さん=福岡県みやこ町で2023年10月19日午後0時39分、栗栖由喜撮影
「サシバエの被害に困っていない酪農家はいないですよ」。福岡県みやこ町で約30年間、酪農を営んできた白川順二さん(60)はため息まじりにこぼす。
体長7~8ミリのサシバエは、見た目は家庭などで目にするイエバエとほとんど同じだが、ストロー状の口器で動物や人の皮膚を刺して吸血する。人がサシバエに刺されると注射針で刺されたようなチクリとした痛みを感じて皮膚が腫れるが、この小さな虫が牛と酪農家を苦しめている。
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数百匹のサシバエが体中に群がり、血を吸われることは牛にとって大きなストレスだ。米国では、サシバエの被害により乳牛で年間1頭当たり約140キロの乳量減、肉牛で約10キロの体重減が報告されている。サシバエが媒介する感染症の影響も深刻で、牛以外の家畜も含め少なくとも18種あるとされる。このうち、発症数が多く、牛の白血病ともいわれる「牛伝染性リンパ腫」に感染した牛は、治療用のワクチンがないため殺処分するしかない。
白川さんの農場でも、飼育する約60頭の乳牛のうち、感染性の乳房炎にかかり抗生物質が効かずに治療できない牛が最低でも年間1割ほど出る。完治できなければ肉牛として売りに出すしかなく、頭を悩ませてきた。この病気の原因とされる細菌もサシバエが媒介する可能性が指摘される。
(右から)サシバエのさなぎ、サシバエ、サシバエの天敵のキャメロンコガネコバチ=九州大大学院の松尾和典さん提供
ハエが牛舎に入らないよう建物を密閉することは不可能で、対策といえば煙をたいたり、殺虫剤をまいたりすることくらいだった。
打開策として期待を集めるのが、サシバエの天敵で体長2~3ミリの「キャメロンコガネコバチ(キャメロン)」だ。キャメロンは自分の体より一回り大きいハエのさなぎに卵を産みつける生態を持つ「寄生蜂」で、欧米ではキャメロンの寄生性を生かしたサシバエの防除事例が多数ある。
ハエのさなぎに産卵するキャメロンコガネコバチ=九州大大学院の松尾和典さん提供
仕組みはこうだ。①大量のイエバエを飼育し、さなぎにキャメロンの卵を産ませる②キャメロンが卵を産みつけたさなぎを畜産農家に提供し、サシバエが発生する牛のふんなどにまく③キャメロンが羽化し、サシバエのさなぎに卵を産む④サシバエのさなぎからキャメロンが生まれる。羽化するサシバエが減り個体数が減る、という流れだ。
国内で事例のないこの防除法を試みるのが、寄生蜂の分類が専門である九州大大学院比較社会文化研究院の講師、松尾和典さん(38)だ。研究を始めた当初、キャメロンの国内の生息は確認されていなかった。ただ、キャメロンの生息域が世界各地に分布していることは知られていた。「世界中に生息していて、日本にいないわけはない」。約3年間かけて探し回り、2018年に国内で初めて発見した。
家畜害虫サシバエの天敵、キャメロンコガネコバチ。体長は2~3ミリで5円玉の穴よりも小さい=九州大大学院の松尾和典さん提供
22年夏ごろからは、7道県17カ所の畜産農場で実証試験を実施し、サシバエの発生数のモニタリングやキャメロンの寄生率などについて調査を開始。24年度からはキャメロンが卵を産みつけたイエバエのさなぎを各農場に散布し、サシバエの防除に必要なキャメロンの数や、サシバエの減少率などを調べる予定だ。
サシバエの雌は寿命2~3週間のうち、最大で約800個の卵を産む。対して、キャメロンの雌は約1カ月の寿命で産む卵が約40~50個とされる。キャメロンがサシバエの個体数を上回らなければ抑制できないため、大学の研究室では1日2万~5万匹のキャメロンを飼育。25年度からサシバエ防除用さなぎとして製品化し、販売を目指す。
家畜害虫サシバエ(手前右)を駆除するため、サシバエのさなぎ(同奥)に寄生するキャメロンコガネコバチ(同左)の活用を研究する九州大大学院の松尾和典さん=福岡市西区で2023年8月29日午前11時39分、栗栖由喜撮影
白川さんは「天敵を使って駆除すると初めて聞いた時はとても驚いたけど、サシバエより一回り小さいハチが対抗してくれるとは頼もしいです」と期待する。
松尾さんは、昆虫を使った害虫防除について「殺虫剤をまいたり防御ネットを張ったりするなどのこれまでの対策のように大きな労力が掛からないのが利点です。キャメロンは在来種なので自然の生態系を壊す心配もありません」と胸を張る。海外ではサシバエの豚や馬への被害も報告されており、他の畜産動物への応用も視野に研究が進む。
天敵利用、持続可能性に寄与
天敵を利用して害虫の被害を防ぐ方法は「生物的防除」といわれ、農業分野で長く使われてきた手法だ。農林水産省が2021年5月に農林水産業の持続可能性の向上を目指して策定した「みどりの食料システム戦略」では、50年までに化学農薬の使用量を50%、化学肥料の使用量を30%それぞれ削減することなどを目標に掲げており、生物的防除の取り組みを重視する。
国内では、中国からの侵入害虫でかんきつ類に被害を及ぼしていたヤノネカイガラムシ対策で、天敵のヤノネキイロコバチとヤノネツヤコバチを中国から輸入して放し飼いした事例や、キュウリなどの野菜類を荒らすアザミウマやコナジラミなどの害虫対策で、捕食者でダニの仲間のスワルスキーカブリダニをハウスに投入する事例などがある。
一方で近年では、外来種を持ち込むことで、土着生物に悪影響を与える危険性も指摘される。このため、土着の天敵の生息環境を保護するなどした「保全的防除」の普及が進む。東南アジアからの侵入害虫でナスの樹液を吸うミナミキイロアザミウマの対策では、土着の天敵・ヒメハナカメムシが好むオクラを育て害虫駆除の働きを高めた事例などがある。
生物的防除に詳しい天敵利用研究会の大野和朗前会長(68)は「日本は先進国の中でも農薬の使用量が突出している。防除を目的とした農薬の過剰使用によって、逆に農薬に対して害虫が抵抗性を発達させる場合もある。生物的防除を基幹とした取り組みが、持続可能な食料生産や農業の実現につながる」と意義を語る。【栗栖由喜】