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毎日新聞2024/3/18 08:00(最終更新 3/18 08:00)有料記事2428文字
海底の泥を器具ですくい上げてトレーに移す高田秀重・東京農工大教授(左)と学生ら=東京湾で2024年1月27日、下桐実雅子撮影
電気機器の絶縁油など幅広く使われたポリ塩化ビフェニール(PCB)など、残留性の有害化学物質の国際規制が始まって今年で20年。世界的に減少傾向にあるが依然として環境に残り続けている。対象物質も拡大の一途で、汚染根絶の道は険しい。
禁止から半世紀たったのに……
1月下旬の晴れた日、東京農工大の高田秀重教授と学生らは東京湾で小型船の上にいた。学生が先端に器具の付いたロープを5~10メートルほど下の海底に落とし、泥をすくう。引き上げられた泥からは硫黄のようなにおいが漂った。
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においの有無や表面の酸化の状態、水深などを記録し、1地点あたり100グラム程度を保管容器に入れた。この日は湾内の10地点で泥と海水を採取した。
WEB1・水環境中の総PCB.eps
泥などは化学物質による環境汚染の経年変化を把握するための試料で、高田さんの研究室は2001年から湾内の同じ地点で採取し分析を続けている。高田さんは「泥の分析は5グラムぐらいあればできるので、後は乾燥させて冷凍保管する。問題となる化学物質が出てきた時、いつからどのぐらい汚染されていたのかさかのぼって調べられる」と話す。
国内で1974年に製造・使用などが原則禁止されたPCBは、01年と比べると23年は多くの地点で半分以下に減った。だが、新たな流入がなくても水の流れが悪い場所は依然濃度が高い。泥から海水に移動して2次的な汚染源になりうるという。
大気や海流で拡散、極域が「たまり場」に
PCBは「残留性有機汚染物質(Persistent Organic Pollutants、略称POPs)」と呼ばれる化学物質の一つだ。有害性がある▽分解しにくい▽食物連鎖で環境中よりも高い濃度で生物に蓄積▽長距離を移動――という四つの性質を持つ物質がPOPsと定義される。
ポリ塩化ビフェニール(PCB)を使用した蛍光灯を針金で固定する作業員=東京都八王子市で2001年3月
POPsは大気や海流に乗って地球全体に拡散する。PCBの場合は人間の活動場所から遠く離れた外洋域のクジラや海鳥などの体内にも高濃度で蓄積。90年代の報告でPCBを製造・使用したことがない北極圏のイヌイットの人の血液から高濃度に検出され、極域が「たまり場」になっていることが分かった。
こうした実態を背景に、92年の国連環境開発会議(地球サミット)で採択された包括的な計画に海の汚染物質対策が盛り込まれた。その後政府間交渉を経て01年、スウェーデンでの外交会議で、予防的取り組みでPOPsから人の健康や環境を守ることを目的とする「約ストックホルム条(POPs条約)」を採択。04年5月に発効した。現在の締約国・地域は日本など184カ国と欧州連合(EU)、パレスチナ自治区だ。
日本では68年、油の製造工程で混入したPCBなどによる食品公害「カネミ油症事件」が発覚。73年にPCBのような物質の製造・輸入を禁止する化学物質審査規制法(化審法)が成立していた。欧米でも対策が進んでいたが、条約の発効と同時に、PCBのほか、農薬として使われたDDT、ダイオキシンなど12物質が国際的に規制されるようになった。
「廃絶」対象にプラスチック添加剤追加
WEB2・ストックホルム条約.eps
条約で規制する物質はその後追加され、現在は計34。各地の河川や地下水で検出され今も問題となっている有機フッ素化合物のPFOS、PFOAも規制対象になった。
最近追加された物質の中で目立つのは、プラスチックなどに含まれる添加剤だ。23年5月の第11回締約国会議では、プラスチックを長持ちさせる紫外線吸収剤の一種「UV328」が「廃絶」(製造・使用の原則禁止)の対象に決まった。
高田さんは規制を提案したスイスの代表に招かれ、会議に先立つ委員会に出席した。この物質がPOPsの定義に当てはまるかなどが議論となり、データの提供と協力を求められ、世界の海鳥145羽を対象にした研究結果を報告。南極付近の孤島の海鳥からもUV328が高濃度で検出され、遠くから流れついたプラスチックを食べたことで、体内の脂肪に蓄積した可能性が高いと説明した。業界団体は反論したが、最終的に長距離を移動する物質であるなどとして規制対象として認められた。
高田さんは「紫外線吸収剤にはさまざまな種類がある。今後UV328と同じような性質を持つ物質に規制が広がる可能性がある」と指摘する。
外洋の動物で続く濃度上昇
世界中の野生生物の組織などが冷凍保管されている生物環境試料バンク=愛媛大学沿岸環境科学研究センター提供(無断転載禁止)
生態系の上位にいるイルカやクジラ類は、食物連鎖を通じてPOPsが濃縮しやすい。愛媛大は70年代から世界中でこうした野生生物を調査してきた。魚や鳥、哺乳類の組織など約1400種、12万点を冷凍保管する試料バンクを持つ。
同大の国末達也教授(環境化学)らは、「脂皮」と呼ばれるイルカやクジラの皮下脂肪組織のPOPs濃度の経年変化を調べた。PCBやDDTは80年代から減少していたが、00年以降は変化がなかった。また、13年に「廃絶」になった難燃剤のHBCDは、外洋域に生息するカズハゴンドウとイシイルカでは00年以降も上昇していた。国末さんは「陸で使われた難燃剤が外洋に移動したと考えられる。継続的な調査が必要だ」と話す。
広がった後では対応困難、「予防」が基本
条約は、締約国が環境中のPOPsのモニタリングを実施し、対策の有効性を評価すると定めている。23年までアジア太平洋地域の有効性評価を担当した国立環境研究所の柴田康行名誉研究員は「世界全体で見れば初期に規制対象になったPOPsは減少傾向にあるが、地域や国別で見ると途上国のデータが不足している」と話す。
今後はプラスチックなどのリサイクルが進む中で、廃棄物に含まれる規制対象の物質が再生品に混入しないよう防ぐことも新たな課題だという。POPsのような残留性が高い物質は環境中に広がった後では対応が難しくなる。柴田さんは「条約は予防的アプローチが基本理念で、欧州は有害性が予想されればより安全な物質に切り替えていこうという意識が強い。これは一つの大事な考え方だ」と指摘する。【下桐実雅子】