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毎日新聞2024/4/4 06:00(最終更新 4/4 06:00)有料記事3705文字
「若返り」老いにあらがう=米Turn Biotechnologies社提供
老いた肌に薬を注射すると、若いころのように張りが戻り、しわがなくなっていく――。
これは、見た目だけをよくする美容整形ではない。細胞の「時計の針」を巻き戻し、肌そのものを細胞レベルで若返らせるのだ。
まるでSFのようなこの技術は、米ベンチャー企業「ターン・バイオテクノロジーズ」が手掛ける。ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏が発見したiPS細胞に、その秘密があるという。どんな仕組みなのか。
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次回:目指すはピンピンコロリ(4月8日午前6時公開)
iPS細胞は、血液や皮膚などの体細胞に「山中因子」と呼ばれる遺伝子を加え、分化前の受精卵のような状態まで戻す「初期化」をして作られる。
山中因子を働かせる時間を短く調整すると、初期化を途中で止めることができる。つまり、細胞を適度に若返らせることが可能になる。
ターン社はこの技術を応用している。カギになるのは、新型コロナウイルスワクチンで知られるメッセンジャー(m)RNAだ。
mRNAはもともと「運び屋(メッセンジャー)」の働きがある。山中因子をmRNAに載せて脂質の膜に包み、狙った細胞まで届ける技術を確立したのだ。
ターン社は、ヒトの皮膚を移植したマウスで実験した。開発した薬を注射すると、実際に肌の質感やしわ、保水力が改善され、より健康的な肌になっていたという。来年にも、ヒトでの臨床試験を始める計画だ。
狙いは皮膚だけではない。軟骨組織を若返らせる関節炎の治療、免疫を若返らせる血液のがんに効果的な治療、角膜を若返らせる緑内障の治療などの薬の開発も進めている。
細胞若返り技術の安全性と効果を確認するため、ヒトの皮膚を移植されたマウス=米ターン・バイオテクノロジーズ社提供
手法を開発した共同創設者のビットリオ・セバスチャーノ・米スタンフォード大准教授と、最高経営責任者(CEO)のアンニャ・クラマーさんは取材に「10年間さまざまな細胞を使い、この手法は安全であることが示唆された。山中因子が働く時間をいかに短く調整し、細胞を効果的に若返りをさせられるかがカギだ」と強調した。
ターン社の技術は世界が注視し、2022年から日本のアステラス製薬も出資する。2人は「細胞の若返り技術を使えば、加齢で働けなくなったり虚弱になったりすることがなくなる。潜在的には寿命を延ばすことも可能だ。加齢によって生じる幅広い病気の治療ニーズを満たすことができる」と自信を見せた。
山中因子で寿命延長も
細胞の初期化は、多くの可能性を秘めている。
16年に米ソーク生物学研究所のイズピスア・ベルモンテ教授のチームが発表した論文が、世界を驚かせた。
チームはまず、通常より早く老化するように遺伝子操作したマウスを用意。そして、週に2日間だけ山中因子を働かせたグループと、何もしないグループに分けた。すると、働かせたグループの方が最大3割も長生きしたのだ。
ベルモンテさんは、22年に設立された、若返り技術の開発を目指す米ベンチャー企業「アルトス・ラボ」に参画した。米アマゾン・コム創業者のジェフ・ベゾスさんらが約4500億円を投資したとされ、バイオテック史上最高額と注目された。
米アルトス・ラボ社のホームページ
形成外科医の栗田昌和さんは、東京大病院から23年夏にアルトス社に移った日本人研究者だ。
栗田さんはこれまで、山中因子などを使い、さまざまな器官や組織をマウスの実験で再生させる研究に取り組んできた。
細胞を胎児のような状態まで初期化した後に分化させたり、細胞の種類を直接変えたりして、壊死(えし)した皮膚や、生えなくなった毛髪を再生。23年にはマウスの手を骨髄まで再生し、指として分かれさせるところまで成功した。
アルトス社での研究内容を明かさないことを条件に取材に応じた栗田さんは「なんといっても世界を変えたい。残る20年ほどの研究者人生の目標だ」と意気込む。
ただし、山中因子は危険もつきまとう。
シャーレの中のiPS細胞を見つめる山中伸弥教授=京都市左京区で2011年9月2日、幾島健太郎撮影
生体内で山中因子を働かせるマウスを開発した山田泰広・東京大教授(分子病理学)は、山中因子を1週間連続で働かせると、細胞ががん化することを米医学誌セルに発表した。
山田さんは「初期化は、若返りとがん化の表裏一体という面がある。ベルモンテさんの研究の一部は再現されているものの、マウスの中で詳細にどのようになっているのかメカニズムが分かっていない」と指摘する。
その上で「初期化が流行し、多くの論文が発表されているが、再現性が確認されている論文は多くない。若返りという夢のあるテーマで、出口志向が強まりすぎているのではないか」と懸念する。
京都大iPS細胞研究所の豊田太郎講師(再生医療)も「例えば、臓器ごとなど老化の定義は確立していない。老化の仕組みを詳細に調べなければ、初期化でどの状態に戻せば良いのかが判然としない」と話す。
新概念「老いは治療できる」
そもそも、生物はなぜ老いるのか。その一つの答えを示すマウスがいる。
慶応大総合医科学研究センター(東京都)の一室。早野元詞特任講師は、1歳の双子のマウスが入った飼育ケースを手に取った。人間に例えると30代だという。
通常のマウスより早く老化したマウス(左)。白毛が目立つ=東京都新宿区で2024年2月15日、幾島健太郎撮影
1匹は毛並みがきれいで黒々とし、活発に動く。ところが、もう1匹は白い毛が目立ち、動きは鈍く、まるで老人のようだ。早野さんによると、人間だと80歳近くに相当するという。
実は、この白毛のマウスには特別な仕掛けがされている。体内の「エピゲノム」という機能を人為的に乱しているのだ。
エピゲノムとはなんだろうか。
生物は、自らの設計図である遺伝子(ゲノム)から情報を読み取り、それを元にたんぱく質を作って、身体や機能を維持している。ただ、遺伝子に含まれる情報は膨大だ。いちいち全体を読み取っていたら、極めて効率が悪い。
エピゲノムとは
このため、必要なたんぱく質を作るには遺伝子のどこを読み取ればいいのかを「検索」する機能が、遺伝子自身に備わっている。これがエピゲノムだ。例えるなら、巨大な図書館の書庫から、欲しい本だけを探し出すような働きだ。
エピゲノムは、壊れた遺伝子を修復することにも関わっている。これが機能しなくなると、誤ったたんぱく質が作られたり、必要なたんぱく質が作られなくなったりしてしまう。
これが「老い」の一つの本質ではないか、というのだ。
米ハーバード大のデビッド・シンクレア教授(遺伝学)は、生命にとって、老いは必然ではなく、病気だという概念を打ち出した。つまり、エピゲノムを制御できれば、老いは「治療」できるという。
「双子のマウスの片方は、若いうちに3週間、強制的にエピゲノムを乱した。その後、乱すのをやめても老化は早まる。つまり、エピゲノムの乱れは記憶されてしまう」と早野さんは語る。
研究室で双子のマウスを観察する早野元詞・慶応大特任講師=東京都新宿区で2024年2月15日、幾島健太郎撮影
早野さんによると、ヒトのエピゲノムに影響を与えるのは、加齢のほか、紫外線や放射線、喫煙や暴飲暴食、運動不足などだという。これらによって遺伝子の破壊が進むと、エピゲノムが乱され、「検索」に手が回らなくなる。
この状態をさまざまな手法で治す研究が、急速に発展している。高齢になってもエピゲノムの機能を保つ方法が確立されれば、ヒトでも寿命を延ばすことが可能になると考えられるからだ。
シンクレアさんは著書で、人間の寿命は、非常に控えめに見積もっても「平均で113歳」だと主張している。
不老不死に投資が過熱
人類が夢見てきた「不老不死」が、現実に近づいている。この技術を確立させ、世に送り出そうと、米国では多くのベンチャー企業が登場。投資が過熱している。
例えば、人間の健康寿命を10年延ばすことを掲げるレトロ・バイオサイエンシズは、対話型AI「チャットGPT」を開発した米オープンAIのサム・アルトマンCEOらから、1億8000万ドル(約270億円)を調達した。
ベンチャーキャピタルファンドを運営するファストトラックイニシアティブ社の安西智宏代表パートナーは「米国では投資市場が悪くなる中で、老化研究では1社当たり1億ドル単位の投資が散発的にある。米国の西海岸では、ITで当てた次の投資先として、老化が注目されている」と見る。特にアルトス社は、巨額の資金と一流の研究者を多数集めていて、従来のアカデミアではできなかった研究体制ができているという。
投資家の本心について、ある老化研究者は「彼らに今の高齢者のためという感覚はないと思う。将来的に抗老化技術を享受できる裕福で元気な高齢者が増えることで、そこに新しいビジネスが生まれると見ているのだろう」と明かす。
「老い」は本当に克服できるのか。また、そうすべきなのだろうか。
霊長類学者の山極寿一・総合地球環境学研究所長は「生物界の原則である世代交代が破れてしまう。自分が死ぬことを前提にした次世代への見返りを求めない投資ができなくなり、利他という倫理観を失いかねない。技術を応用する上での倫理を作るべきで、そのためには『人間とは何か』という哲学が必要だ」と警鐘を鳴らす。