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毎日新聞2024/7/18 東京朝刊有料記事2257文字
ベビーボックスに入れられた赤ちゃん。施設職員の腕に抱かれ、ミルクを飲んでいた=ソウル市で6月25日午後
韓国で19日、女性が身元を隠したまま医療機関で子を産める「保護(内密)出産」を認める特別法が施行される。日本でも議論は続いているが、法制化には至っていない。なぜ韓国はいち早く導入に踏み切ったのか。現地で取材すると、韓国ならではの事情が浮かび上がってきた。
消えた赤ちゃん2200人機に
屋外に設置されたベビーボックスについて説明する李鍾洛牧師=ソウル市で6月25日午後
「この扉が開けられると、建物の中で音楽が流れ、24時間体制で待機している職員に伝わる仕組みです」。キリスト教会「主の愛共同体」の李鍾洛(イジョンラク)牧師(69)がそう言って扉を開けた。ベビーボックスの中には柔らかい布団が敷かれ、新生児なら2人は入る広さ。寒さが厳しい冬は電気毛布で温める。
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日本の慈恵病院(熊本市)が設置する「赤ちゃんポスト」と同様の仕組みで、出産を誰にも知られたくない未婚女性らが子を託しに来る施設だ。女子中学生、性暴力被害者、不倫相手との子を産んだ女性など、境遇はさまざま。自宅などで一人で赤ちゃんを産む孤立出産をした女性も少なくない。
「主の愛共同体」では開設から約15年で2148人もの赤ちゃんを受け入れてきた。約17年で179人が預けられた慈恵病院の12倍だ。あまりの多さに社会問題化し、内密出産制度を導入すべきだとの意見が少しずつ広がった。実名を明かさずに病院で子を産めれば、ある程度は孤立出産を防げると考えられるためだ。一方で「育児放棄を助長する」との声もあった。
内密出産制度はドイツなどでも導入されている。法制化されれば出産に関わる費用は国費負担だ。生まれた子の多くは、養育施設に預けられたり、養親に引き取られたりする。
韓国の国会では2018年以降、議員が法案を提案するなど議論が活発化した。だが、「未婚の母らへの支援を充実させることが先決だ」といった反対意見もあり、法制化には至らなかった。
ところが23年10月、急転直下で内密出産を法制化する特別法が可決された。李牧師が言う。「きっかけは『消えた2200人の赤ちゃん』の問題でした」。そこに至る経緯は、少し複雑だ。
行政の仕事をチェックする韓国の監査院は23年6月、病院で出生時に付与される「臨時新生児番号」があるのに、出生届が出ていない15~22年生まれの子が2200人以上いたと発表した。
韓国政府や警察のその後の調査でベビーボックスに預けられるなどした1025人の生存は確認したが、母親による遺棄などで249人が死亡していたことが判明した。子を絞殺し冷蔵庫に入れていた事件や、死んだ子を山中に遺棄した事件などが明らかになった。800人以上の行方について調査が続けられている。
調査結果は韓国社会に衝撃を与えた。病院で生まれた新生児の行方がわからなくなるといった事態を防止するにはどうすべきか。そこで韓国国会は、親の氏名や子の性別などを指定された公的機関に提出するよう医療機関に義務づけた「出生通知制度」に関する法案をスピード可決した。行政機関が新生児の出生届が出ているか確認することで、赤ちゃんが「消える」のを防ぐ仕組みだ。
知る権利と両立模索
ところがこの制度では、医療機関で子を産めば必ず実名で出生届が出される。このため、こんどは「出産を秘密にしたい女性を追い詰める」「自宅などでの危険な孤立出産を助長する」といった指摘が相次いだ。国会では、出生通知制度の施行と同時に内密出産制度も実施すべきだとの声が一気に高まり、関連の特別法の成立に至った。
立法では14年に内密出産を法制化したドイツを参考にした。全国のどの産科病院でも出産でき、女性は仮名で入院する。健診や出産などに伴う費用は国と地方自治体が負担する。生まれた子の施設入所や養子縁組なども行政が担う。内密出産を希望する女性の相談は、政府が指定した全国各地の「地域相談機関」で受け付ける。
大きな課題は、実の親が誰かなどの出自を子が知る権利の保障だ。
出産後、母親は身元情報を法が定めた公的機関だけに提出する。その内容は封書に密封され、厳重に保管される。出生届は自治体の首長が職権で出す。
子は、親が内密出産を選択した状況などの情報は両親の同意なしに知ることができるが、両親の氏名など個人情報については原則として両親の同意が必要だ。母親のプライバシー保護と、子の出自を知る権利をどう両立させるのか。この点は将来、子が開示について親の同意を得られない場合に議論となる可能性がある。
日本、医療機関が対応
日本では、「赤ちゃんポスト」を運営してきた慈恵病院が2019年12月、独自に内密出産の取り組みを始めた。同病院は、23年12月までに21人の女性が利用したと発表している。だがドイツや韓国と違って法的な裏付けがないため、出産費用なども病院側が負担する形となっている。
慈恵病院の制度は、女性が医療機関の一部職員だけに個人情報を明かして出産する。母親が出産後に自身の個人情報を記載した出生届の提出を望まない場合が多いため、出生届なしでどのようにして戸籍を作成するかが課題となった。
国は22年9月、ガイドライン(指針)を作成した。母親が出生届を提出しない場合は、医療機関から児童相談所を通じて出生日などの情報を自治体に提供。首長の職権で子の戸籍を作成するとした。母親の身元情報については公的機関が管理すべきだとの意見が出ていたが、指針は、医療機関が管理すると規定した。子が身元情報の開示請求をした場合についても、医療機関に対応を任せる形だ。【ソウル福岡静哉】