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毎日新聞2024/4/18 06:00(最終更新 4/18 06:00)有料記事3128文字
冬眠 秘められた能力
「しっぽから放熱し、体温が下がってきている」
筑波大国際統合睡眠医科学研究機構の実験室。桜井武教授(神経科学)が、サーモカメラに映ったマウスを見ながら説明した。
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マウスの脳には、微弱な光を通す細い光ファイバーを差し込んでいる。これで60分間、光を当てると、37度ほどあるマウスの体温がみるみる下がり、室温と同じ22度になった。じっとしておとなしく、手に乗せても逃げない。
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実はこのマウス、「冬眠状態」にある。
マウスを人工的に冬眠させる
「脳波を見ると、睡眠とは全く異なり、低意識のような状態だ。酸素消費量は10分の1程度に落ち、代謝も数十分の1に下がっている」(桜井さん)
哺乳類は体温を維持するため、代謝をして熱を作る「熱産生」をしている。体温だけ下がると体がダメージを受けてしまうが、代謝も下がっているため、マウスの命に別条はない。そればかりか、環境に合わせて体温を調節し、熱産生を最小限にしているという。
マウスは本来、冬眠しない動物だ。だがこのマウスには、脳の視床下部にある「Qニューロン」と呼ばれる神経細胞に、光に反応する物質を作る遺伝子を人為的に組み込んでいる。
脳に光を当てると、Qニューロンが活性化し、冬眠状態になる。つまりQニューロンが、冬眠の「スイッチ」である可能性を、桜井さんは発見したのだ。
詳しい仕組み、まだ不明
そもそも恒温動物である哺乳類が、なぜ冬眠するのだろうか。
北海道大低温科学研究所の山口良文教授(分子冬眠学)によると、冬場などの餌が少なくなる時期を乗り越えるため、代謝や熱産生を下げる仕組みが発達したと考えられる。ただ、詳しい仕組みはよくわかっておらず、その解明を目指す動きが盛んになっている。
山口さんは、低温になっても冬眠動物の細胞や臓器が傷まない理由を探っている。
冬眠中のシリアンハムスター=山口良文・北海道大教授提供
冬眠マウスは体温が20度以下にはなりにくいが、もともと冬眠するシリアンハムスターは10度を下回る。シリアンハムスターを調べると、傷まないように働く遺伝子の候補がいくつか見えてきたという。
「低温に耐えられる能力を非冬眠動物に応用できれば、体温を大きく下げ、代謝をより落とせる可能性がみえてくる」と山口さんは話す。
理化学研究所生命機能科学研究センターの砂川玄志郎・チームリーダー(生理学)は、脳だけでなく、臓器や皮膚など、末梢(まっしょう)側にもスイッチがあると考えている。冬眠が起こる現場は末梢組織にあるからだ。
砂川さんは、冬眠マウスのさまざまな臓器や組織の遺伝子をゲノム編集して変異させ、どの遺伝子が冬眠中に働いているのか、網羅的に調べている。
「人工冬眠には、脳の神経細胞の刺激だけでは不十分だ。臓器や細胞の側にも、代謝を下げ、熱産生を抑える仕組みがあるのではないか」と砂川さんはにらむ。
医療や宇宙へ応用
冬眠の研究が進む理由は、ヒトへの応用を見据えるためだ。
その一つが、代謝を低下させて病気の進行を防ぐことだ。実際に、冬眠マウスでこの効果が確認されている。
手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」では、不治の病の患者2人を、未来に治療法が開発されることを期待して、人工冬眠させるシーンが描かれている。
筑波大国際統合睡眠医科学研究機構の桜井武教授=茨城県つくば市で2024年2月19日、幾島健太郎撮影
桜井さんらのチームは、よりヒトに近いサルでもQニューロンの研究を始めた。将来的にヒトに応用し、重篤な患者の救命率を上げるため、救急搬送中に冬眠させるアイデアを描く。「冬眠で省エネ状態にすれば、それだけ臓器や組織の悪化を遅らせられる」(桜井さん)
砂川さんは、特定の臓器や組織だけを冬眠させることも目指している。そうすれば、より効果的に医療に応用できると考えるからだ。
「目的はメカニズムの解明よりも応用だ。ヒトの冬眠は夢物語ではない。完全でなくとも、一部だけでも冬眠状態に持ち込みたい」と語る。
宇宙旅行に役立つと考える研究者もいる。
米国が進める「アルテミス計画」での月面探査・開発のイメージ=米航空宇宙局(NASA)提供
米国や日本などが進める国際宇宙探査「アルテミス計画」は、月を起点に火星への有人飛行を目指す。だが滞在時間を考えると、火星までは往復で約2年かかる。食料や酸素などの資材が膨大になり、巨大な宇宙船が必要で、現状では実現は難しい。
もし冬眠できれば、資材を大幅に減らせる。代謝が下がるため、長期間でも筋力や骨量が低下しづらくなる。低意識状態のため、孤独な宇宙空間での精神的ストレスも軽減できる。
しかし、利点ばかりとは限らない。
長期間冬眠すると、その間の社会の変化と切り離されてしまう。冬眠中のヒトを社会的にどう取り扱うかは決まっていない。
老化の速度も落ちるため、暦年齢と生物学的な年齢が乖離(かいり)し、目覚めたときに「浦島太郎」のようになる。
理化学研究所生命機能科学研究センターの砂川玄志郎・チームリーダー=本人提供
「10年間寝て過ごした人が起きてきた時に、社会がそのギャップを受け入れられるだろうか」。砂川さんはそう指摘する。
脳の能力も拡張
冬眠だけではない。ヒトに新しい能力を獲得させる研究分野は「人間拡張」と呼ばれる。
近年注目されるのは、脳の機能を強めたり、新たな働きを付け加えたりする技術だ。
米南カリフォルニア大のセオドア・バーガー教授らのチームは2018年、ヒトの脳に埋め込んだ電極を通し、記憶力の強化を試みる実験をした。
英専門誌で発表された論文によると、てんかん患者の脳の「海馬」と呼ばれる部位に電極を埋め込み、さまざまな画像を見せた。75秒後にそれを覚えているか、電極に特殊な電流を流した場合と、流さない場合とで比べた。
その結果、電流を流すと、覚えている割合が約3割向上したという。
海馬は、一時的な「短期記憶」から重要な記憶をより分けて「長期記憶」として保存する役割を果たす。長期記憶へ移す際には、海馬で特定のパターンの電流が発生する。埋め込んだ電極から、似せた電流を流すことで、保存を促したと考えられる。
起業家イーロン・マスク氏が創業した米ベンチャー「ニューラリンク」は今年1月、ヒトの脳に電気信号を読み取るチップを埋め込む臨床研究を始めたと公表した。
米食品医薬品局の承認を受け、脊髄(せきずい)損傷や筋萎縮性側索硬化症(ALS)で四肢がまひした患者に対し、動く意思をつかさどる脳の部位にチップを埋め込んだ。
「コンピューターのカーソルやキーボードを、思考だけで操作できるようにすること」を最初の目標に挙げており、マスク氏のX(ツイッター)の投稿によると「経過は順調」だという。
「無駄な時間」も重要か
人間拡張は今後、どう応用されるのか。
産業技術総合研究所の持丸正明・人間拡張研究センター長(人間工学)は「人間の生物的な進化は遅く、環境に身体を合わせるのには時間がかかる。倫理的な課題が大きい遺伝子操作ではなく、取り外し可能で、自らの能力が高まったと感じられる人間拡張技術なら社会に受け入れやすい」と説明する。
広島大の栗田雄一教授(ロボット工学)は「仕事をより多く詰め込めるようになる一方で、移動時間がなくなったり、作業時間が密になったりすると、頭をリセットしたり、緊張感を和らげたりするタイミングがなくなってしまうかもしれない。無駄だと考えていた時間が、ヒトにとっては大切だという可能性もある」とみる。
そして「ヒトの能力を高めて便利さや効率ばかりを追求し、福祉や余力を踏まえた技術開発をしなければ、むしろ疲弊させかねない。こうした観点の研究はまだ遅れている」と指摘する。