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毎日新聞2024/7/21 東京朝刊有料記事939文字
横浜市営日野公園墓地にある美空ひばりの墓前で手を合わせる長江曜子・聖徳大教授。命日に供えられた花はきれいに片づけられていた=滝野隆浩撮影
<滝野隆浩の掃苔記(そうたいき)>
日本葬送文化学会長の長江曜子・聖徳大教授と行く著名人の墓巡りシリーズ。久しぶりの今回は美空ひばりの墓に決めた。1989(平成元)年6月24日没。今年は没後35年の節目である。本当は命日に行きたかったのだけど、当日は今でも大勢のファンが墓前に集まり混雑すると聞いた。ならばしばらく間をおいて7月上旬に、となった。
出生地の横浜市を見渡せる高台にある市営日野公園墓地。東京都立霊園などとは違って著名人墓の案内図はない。先生と2人、汗だくになりながら坂を上り、探し回り、みつけた。端正なたたずまいの墓だった。供えられた花はもうない。「たぶん石材店がきちんと管理しているからですよ」。先生は言った。
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37(昭和12)年生まれ。9歳で歌手デビューし、12歳で「悲しき口笛」、13歳のとき「東京キッド」の大ヒットを立て続けにものにするなど「天才少女」の名をほしいままにした。敗戦後の苦難の時代を生きる国民に、ジャンルを超えた明るいひばりの歌声は希望を与えたのだろう。詩人サトウハチローらの「ゲテモノ」批判をものともせず、「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」など、いまも歌い継がれる名曲を次々と世に送り出した。
歌に生きた人生だった。デビュー前、歌をやめさせようとした父親に「歌をやめるなら、わたしは、死にます」と言ったという逸話が残る。晩年も病魔と闘いながら、ステージに立ち続けた。
そして――。昭和という時代の終わりを見届けたあと半年もせずに、多くの人に愛された歌姫は短い人生を閉じた。ラストソングは「川の流れのように」。墓石の右手の歌碑には、元号が変わったその日にひばりが詠んだ短歌が刻まれている。「平成の我新海に流れつき命の歌よ穏やかに…」。享年52。
敷地の門の手前には小さな金属ケースが置いてあって、中には線香とマッチがあった。花は供えても、線香を忘れたファンへのサービスなのだろう。「ひばりは死んでない、生きてるんです」。長江先生は妙なことを言い出す。「ひばりさんのこと、忘れたくなくて皆がここに会いに来る。だからひばりさんは、ファンの心の中でいつまでも生き続けているんです」。死者と生者が語り合う場、それが墓という場所なのだ。(専門編集委員)