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毎日新聞2024/4/25 06:00(最終更新 4/25 06:00)有料記事2639文字
インタビューに答えるジャーナリストの須田桃子さん=東京都千代田区で2024年4月2日、猪飼健史撮影
生命の設計図であるゲノムを人工的に合成し、意図する生物を生み出す「合成生物学」が進み、SFのような世界が迫っている。科学ジャーナリストの須田桃子さんは、生命科学のパラダイムシフトが起きたと捉えている。ヒトは万物を創成する「神」に近づいていくのだろうか。【聞き手・渡辺諒】
同時公開の記事があります。
◇ゲノムを合成し生命をデザインする 人は万物を創りうるか
※『神への挑戦 第2部』好評連載中。生命科学をテーマに、最先端研究に潜む倫理や社会の問題に迫ります。これまでの記事はこちら
――合成生物学の登場をどのように見ましたか。
◆生命科学分野の最先端だという認識を持っています。きっかけは、米国の分子生物学者のクレイグ・ベンター氏が2016年、解読した細菌のDNAをコンピューター上で再設計し、実験室で合成したDNAから新たな細菌を作ったという発表を見たときです。ゲノムを解読することは、ゲノムを設計することをも可能にしたのだと認識しました。ワクワクすると同時に、大きな変革をもたらすパラダイムシフトだと直感しました。
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ちょうど同じころ、米国で第2のヒトゲノム計画が発表されました。解読を経て、ヒトのゲノムを人工的に作り出そうというものです。ヒトそのものではなく細胞を作る計画ですが、ベンター氏が細菌で成功させたことが、すぐにヒトに向かうのではないかと感じざるを得ませんでした。
科学は基本的には恩恵をもたらすことが多いと思っています。ただしそれは往々にして、倫理的な面で新たな課題を生んだり、社会との間であつれきが起きたりします。特に生命科学は進展が早く、社会の議論やルール作りが進む前に、技術が世に出てしまうことが多い。合成生物学はまさに、そういう状況が一番色濃く表れるように思います。
――社会にもたらし得る恩恵と不利益は何でしょうか。
◆医薬品の製造や、これまでにない素材の生産が最も期待されていると思います。新型コロナウイルス感染症のワクチンが代表例でしょう。それから臓器移植の分野です。ヒトに移植しても拒絶反応が起こりにくいように遺伝子を改変したブタが、米国や日本で誕生し、米国では患者への移植手術も行われました。
インタビューに答えるジャーナリストの須田桃子さん=東京都千代田区で2024年4月2日、猪飼健史撮影
また、温暖化した地球で食料を確保するために、従来の品種改良ではなく、ドラスチックに改良ができる合成生物学的な手法が生かされるかもしれません。
一方で不利益は、生物が容易に作り変えられれば、例えばヒトに感染しやすく重症化しやすいウイルスや微生物が作れてしまうことです。こうした研究は、ワクチンの先回り開発という面では重要だという主張もありますが、ウイルス自体が外部に流出してしまうリスクが常につきまといます。
――軍民両用(デュアルユース)研究という観点も懸念していますね。
◆米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA、ダーパ)が、合成生物学分野に拠出する予算が年々増加しているというリポートに衝撃を受けました。実際にダーパに取材をしてみると、例えば感染症対策に資する研究は軍部の要請だと認めました。海外に派遣された自国の兵士の健康を保つためだといいます。
ですが私は、生物兵器研究につながりかねないという側面を忘れてはならないと考えています。もちろん、生物兵器の研究や保有を禁止する条約もありますが、冷戦下の旧ソ連では、禁止条約の調印後に生物兵器の開発が行われました。開発に携わった後に米国に亡命した研究者にも取材しましたが、彼は「まさに合成生物学的な手法だった」と証言しました。
――合成された生物が環境中に出てくるリスクをどのように捉えていますか。
◆生物戦でなくても、研究所からの流出などの事故は防ぎきれないでしょう。流出が起きたときに、ゲノムに目印を付けておくことによって、人為的に作り出されたものだと分かるようにする研究も進んでいます。
米国では「DIYバイオ」といって、自宅のガレージや部屋で、市民が合成生物学に取り組む活動が盛んです。DIYバイオは研究計画や実施状況を提出する必要がなく、国や研究機関の管理や監視は行き届きにくいでしょう。
市民が関心を持って科学に取り組むことは健全なことですし、全く否定はしません。しかし、流出のリスクが高いのではないかという懸念は拭えません。
オンライン取材に応じた賀建奎氏=オンライン取材時のスクリーンショットから
――18年には受精卵にゲノム編集を施した子どもが誕生しました。
◆ある意味で、ヒトを対象にした合成生物学的な研究と言えると思います。ヒトゲノムを人為的に書くということにもつながりますから。ゲノム編集ベビーは人間の尊厳に大きく関わる問題です。医学的な妥当性や安全性、倫理的な議論や国際的なコンセンサスがないまま行われ、子どもも誕生してしまったのはまぎれもない暴挙です。しかも、行った研究者が刑期を終えたからといって、研究を再開しているというのは深刻な状況だと思います。
――こうしたことを防ぐには、どうすればよいと考えますか。
◆日本は、海外の倫理規定を参考にルール作りを進める傾向にあります。しかし、そんな小手先の議論ではなく、生命をどこまで改変してよいのか、それがヒトに応用されたとき、尊厳にどのように関わるのかという根源的な議論が欠けていると感じています。哲学的な部分の議論をもっと進めるべきです。
それには、技術の最先端を知る科学者が、もたらしうるリスクを予測して提示することが大切です。これは科学者にとって、自らの研究は危険で中止すべきだと批判されかねないので、やりにくいことだとは思います。しかし、自らの研究に責任を持つのであれば、積極的に発信し、議論の材料として提供すべきでしょう。
インタビューに答えるジャーナリストの須田桃子さん=東京都千代田区で2024年4月2日、猪飼健史撮影
科学研究は、地道な実験と考察を少しずつ積み上げていくものです。しかし、こうした現状を知らない人が、恩恵だけを大々的にアピールする研究成果を耳にすれば、大きな期待をいだいてしまいます。社会が過大な期待を持つことは、リスクを覆い隠す方向に突き進みかねないと思っています。研究のポジティブな面だけに注目せず、ネガティブな面にも関心を向けてほしい理由はここにあるのです。
すだ・ももこ
1975年千葉県生まれ。早稲田大大学院理工学研究科修士課程修了。毎日新聞記者を経て、2020年4月からネットメディア「ニューズピックス」副編集長。現在は同編集委員。「捏造の科学者 STAP細胞事件」(文芸春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞。2018年に「合成生物学の衝撃」(同)。