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毎日新聞2024/4/25 06:00(最終更新 4/25 06:00)有料記事3204文字
人は「生命」を生み出すか
なぜ地球に生命が誕生し、どのように進化したのか――。この謎を解く最大のカギが、ゲノム(遺伝情報)にある。
ゲノムは生命の設計図とされ、ヒトなど多くの生き物で解読が進んでいる。読むだけでなく「書く」ことができれば、新しい生命が創造できる。
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この研究は「合成生物学」と呼ばれ、近年盛んになっている。きっかけは2010年だ。
米国の分子生物学者、クレイグ・ベンター氏が、人為的につくったゲノムを、既存のゲノムと置き換えた「人工細菌」を作った。細胞こそ借り物だが、人間が書いた設計図で、初めて生命が動いたのだ。
ただ、人為ゲノムは細菌などの内部で合成している。ベンター氏も同様だが、この方法では手間がかかる。
ゲノムの材料であるDNAは、4種類の塩基でできた2本の鎖が対になった構造で、長いほど複雑な情報を含む。細菌では数百万塩基対だが、ヒトでは約30億塩基対と桁違いだ。生き物の内部では、これほど長いものを作るのは効率が悪い。
より長いDNAを、生き物の力を借りずに試験管内で完全合成できないか――。これで注目を集めるのが、末次正幸・立教大教授(合成生物学)だ。
例えば、新型コロナウイルスの検査で使われたPCRも、人工的にDNAを複製して増やす手法だ。しかしPCRでは100~1万塩基対が限界で、ゲノムには及ばない。
末次さんは、DNAの断片を効果的に長くつなぐ手法や、それを試験管内で複製するための酵素の反応手法を開発。200万塩基対のDNAを試験管内で多量に作ることに成功した。
末次さんが取り組むのは、大腸菌のゲノム(460万塩基対)の合成だ。合成したDNAはすでに170万塩基対に達しており、今年にも大腸菌に戻す。「生存には不必要な部分も天然のゲノムに含まれており、170万塩基対で十分」とみており、もし成功すれば、完全に人の手だけで作った設計図を持つ生き物ができることになる。
DNAを人工的に合成する研究について話す立教大理学部生命理学科の末次正幸教授=東京都豊島区で2024年3月1日、三浦研吾撮影
この技術を元に末次さんが作ったベンチャー企業「オリシロジェノミクス」は、新型コロナワクチンを製造する米モデルナの目にとまり、23年2月に買収された。モデルナは、ワクチンに使うメッセンジャーRNAの鋳型となるDNAを大腸菌の中で合成していたが、試験管内での完全合成の方が、はるかに効率が良いからだ。
末次さんは、極限までゲノムのサイズを小さくしたシンプルな原始的な生き物を作り出すことを目標にする。「シンプルな生き物を作り出せれば、生き物の根源が理解できる。新しい能力を与えたり、新たな生き物をデザインしたりすることができるようになる」と話す。
試験管で進化を再現
研究者は、「進化」を人為的に起こすことも見据えている。
生命のおおもとは、DNAの2本鎖がほどけた形をしているRNAだったという仮説がある。これが原始の地球の水中で泡状となって原始的な細胞ができ、生き物の一つの定義である「自己複製」が始まった、というのだ。
東京大の市橋伯一教授(進化合成生物学)は、ウイルス由来のRNAを使い、この一連のプロセスを模した状況を試験管内で再現することに成功した。世界で唯一、生物を使わずに自律的な進化の実験ができる装置だ。
試験管内にRNAと、RNAを複製する酵素などを入れ、油の膜に包んだ「人工細胞」をつくる。RNAが増えてくると、試験管をかき混ぜていったんバラバラにする。これを繰り返すと、新しくできたRNAがまた油の膜に包まれる。こうして、人工細胞を人為的に培養できる。
人工細胞を試験管で培養
ただしRNAは不安定なので、複製の際にミスが起きる。これはヒトの細胞に比べて1000~10万倍も起こりやすい。このコピーミスが、うまく転べば進化になるのだ。
市橋さんが培養を続けると、元は1種類だったRNAが5種類に増えたと、22年に論文で発表した。これは人工細胞が「進化」したとみることもできる。
市橋さんによると、最初は同じRNAを持っていた人工細胞が、増殖を繰り返すにつれ、他の細胞に寄生して増殖したり、寄生から逃れたりする性質を持つようになった。「さらに培養を続けて、複製能力以外の新しい機能を獲得する様子を観察したい。自然界には存在しない機能の獲得がつまびらかになるかもしれない」と期待する。
生命の創成「まだ序盤」
ただし、これらの研究はまだ基礎レベルだ。仮にゲノムや細胞が作れても、そこから複雑な組織を作るまでには、多くの壁がある。
さらに実際の生き物は、さまざまな組織がネットワークを作って機能している。組織だけを作っても、それを組み合わせるだけでは生き物にはならない。
東邦大の後藤友二准教授(発生遺伝学)は「単細胞生物でできたとしても、多細胞生物を一から作るのはとても難しい。映画『ジュラシックパーク』のような世界や、神話に出てくる(異なる動物のパーツでできた)キメラのような生き物は出てこない。過度に恐れる必要はない」という。
つまり、生き物そのものを作る研究は、まだまだ序盤だというのだ。
木賀大介・早稲田大教授(合成生物学)も「合成したゲノムからたんぱく質を作り出すタイミングや、作る量をどのように設定するかなど、頑健なシステムの構築が欠かせない。全く新しい人工的な生き物を作る上で、この課題は大きなポイントになる」と解説する。
軍事利用に懸念
ただし、序盤であっても、さまざまな応用が考えられる。例えば、細菌のゲノムを書き換えることで、光合成をさせたり、有機物から石油のようなエネルギー資源を作らせたりといったことが考えられる。
人工細胞の顕微鏡画像=市橋伯一・東京大教授提供
東京工業大の相沢康則准教授(合成システム生物学)は「ゲノム編集は一部改変に過ぎず、生き物全体のシステムをガラッと変えることはできない。ゲノムのデザインが自由にできるようになれば、将来、人類が宇宙に行ったときに、現地で食べ物を作り出したり、人間の排出物を分解したりと、極限環境の生き物を新たに作り出すことも期待できる」と話す。
中でも懸念されるのが、軍事への応用だ。感染力や毒性を高めた細菌やウイルスが合成されると、生物兵器に利用される恐れがあるためだ。
新興の科学技術に詳しい公益財団法人「未来工学研究所」の多田浩之・主席研究員によると、米国と中国では、すでに合成生物学やゲノム編集に多くの研究費を投じている。米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA、ダーパ)など、軍民両用(デュアルユース)を担う機関が代表的だ。中国では、人民解放軍を中心に大きな成果を上げつつあるという。
多田さんは「例えば兵士を超人化することなどに応用される可能性がある。倫理面で国際的に大きな問題になりうる先端技術をいかに把握し、先回りして制限を掛けられるかが重要になる」と指摘する。
もし合成生物学がこのまま進展し、人間が完全に自らの手で生き物を生み出すことができれば、何が起こるのか。
インタビューに答えるジャーナリストの須田桃子さん=東京都千代田区で2024年4月2日、猪飼健史撮影
合成生物学に関する著書がある科学ジャーナリストの須田桃子さんは「生物学にパラダイムシフトがもたらされた。ゲノム編集ベビーがそうであったように、ひとたび誕生し、世の中に出てしまえば取り返しがつかなくなるケースもある。新しい科学技術が社会に出た際のあつれきを先回りし、想像しておくことが大切ではないか」と話した。
人間が生命を自在に操り、万物を創成しうる技術を手にしつつある。ただし、それらを社会が受け入れる土壌はまだ整っていない。神の領域に届く技術を人間が使いこなすという難題に、答えを出せる時代は来るのだろうか。=第2部おわり(この連載は渡辺諒、田中韻、松本光樹、信田真由美、寺町六花が担当しました)