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毎日新聞2024/7/27 東京朝刊有料記事1012文字
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「考える葦(あし)」や「クレオパトラの鼻」の警句で知られる17世紀フランスの思想家パスカルは、昨年が生誕400年。記念すべき年に合わせ、塩川徹也、望月ゆか両氏の訳による「小品と手紙」が1年前、岩波文庫から出た。
控えめなタイトル通り、39歳で早世した万能の天才の生涯を、残されたわずか21編の書き物を通してたどる地味な作り。それだけなら退屈で放り出しかねない。
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心配ご無用。世界的なパスカル学者の塩川氏が、一編ごとの背景や内容を懇切丁寧に解きほぐしてくれる。これが文句なしに面白い。1年かけて読み進めると、驚くべき精神宇宙が立ち現れる。
社交界の人間観察にたけた早熟の科学者にして数学者が、ある夜の体験から神の探究に専心する。キリスト教の正しさを人々の理性に訴えて説得しようと考え、卓抜な比喩と論理を駆使したメモを書きため、未完のまま死んだ。
その集成が「パンセ(断想)」だが、岩波文庫の塩川訳は全3冊。簡単には読めない。「小品と手紙」は、伝記の体裁で「パンセ」の企てと方法を照らし出す。400年の時空を超えた英知の恵みを思わずにいられない。
こう言っても、浮世離れした話で、現代の自分には関係ないと思う読者も多いだろう。確かに。でも、思わぬヒントはある。
「幾何学的精神について」という小論は、「説得術」を分析する。説得術とは当時、レトリックすなわち弁論術の別名だった。
パスカルは、傑出した論争家でもあった。心を寄せる修道院が、堕落を厳しく拒むあまり異端として迫害された。改革派が、既存の体制と権威から弾圧されるのは、世俗も宗教も変わらない。
修道院を擁護し、攻撃する主流派に反撃するため、パスカルが匿名で発表した「プロバンシアル」(田舎の友への手紙)18通は、斬新なレトリックが大評判となり、論争文学の傑作となった。
ネット交流サービス(SNS)全盛の今日、「論破王」たちが世論に君臨する。一方、パスカルは説く。説得には理詰めの論破だけでなく、相手に気に入られる技法が欠かせない。実はその方がはるかに難しく、繊細で有効である。反感を買うよりも、魅了するのだ。論破競争に疲れ果てた世相への警鐘と読めないか。
「パンセ」も現代に響く。力と正義と世論の考察が有名だが、今は短い断片を引用しよう。
「流行が魅力を作り出す。正義を作り出すのも同じく流行だ」
「あまり自由すぎるのはよろしくない」(専門編集委員)