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毎日新聞2024/5/28 06:00(最終更新 5/28 06:00)有料記事2080文字
立体細胞培養技術を活用して作ったヒトの乳腺組織
牛などの筋肉の細胞を増やして作る「培養肉」の流通が米国で始まった。同様に、細胞を培養し、人工的に母乳を作る「培養ミルク」の研究開発が今、日本を含む世界で動き出している。乳房にある、ミルク成分を産生する細胞を用いる取り組みだ。
培養した乳腺組織から微量のミルク
大阪大とTOPPANホールディングス(東京都)などの研究チームは2024年4月、「乳汁様物質」を作る乳腺組織を体外で作ることに成功したと発表した。乳汁様物質とはたんぱく質の「カゼイン」で、母乳に含まれるたんぱく質の約4割を占めるミルク成分だ。
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チームは、細胞同士を接着したり支えたりする働きがあるコラーゲンを特殊な方法で細かくした材料などを使って、生体内とよく似た立体の組織を作る細胞培養技術を独自開発。この技術を用いてミルクを分泌するヒトの乳腺上皮細胞などから乳腺組織を作り、ホルモンで刺激したところ、カゼインが作られたという。一方でその量はごく微量で、細胞外への分泌は確認できなかった。
22年には乳がん患者の細胞から、血管を備えた組織の「ミニ乳房」を再構築することに成功していた。「今回は、ミニ乳房に乳房としての機能があるかを調べることが主な目的だった」と、TOPPANホールディングス研究員の鈴木瑞穂さんは説明する。
培養母乳の実現には、まだいくつものハードルがあるのが実情だ。母乳にはカゼインやホエイといったたんぱく質や脂質、ラクトース(乳糖)、オリゴ糖に加え、ビタミンやミネラルも含まれている。成分を忠実に再現し、さらに大量に生産するのは簡単ではない。それでも鈴木さんは「将来的に、自分の細胞を使って母乳を作れるようになるかもしれない」と期待を込める。
培養母乳が持つ「付加価値」
母乳に代わる物としては、乳児用の粉ミルクや液体ミルクがある。それにもかかわらず、なぜ培養母乳が求められているのだろうか。
ミルクの成分の比較
例えば乳児用の粉ミルクは牛乳をベースに作られている。しかし牛乳はヒトの母乳に比べ、たんぱく質の割合が多く、乳糖やオリゴ糖は少ない。また、母乳には牛乳中には無い「ヒトミルクオリゴ糖(HMO)」が含まれている。
HMOに詳しい帯広畜産大の浦島匡(ただす)名誉教授は「人乳に含まれる糖質のうち8割が乳糖、2割がHMOだが、牛乳中のミルクオリゴ糖は痕跡が確認できる程度にしか含まれない。また育児用の調合乳にはオリゴ糖が入れられているが、HMOとは別物だ」と話す。
世界保健機関(WHO)は生後6カ月まで母乳のみで育てることを推奨しているが、何らかの理由で母乳が出ない人も多い。このため、培養母乳は付加価値が高く、高額でも一定の需要があると考えられている。
海外ではすでにヒトやウシの乳腺上皮細胞を使って母乳や牛乳を作るベンチャー企業が創業しており、多額の投資を獲得している。
米国の「バイオミルク」は23年、ドナーから提供を受けて乳腺上皮細胞バンクをつくり「(母乳の)生産に適した細胞株を複数確立した」と発表している。しかし、培養技術や生産体制、収益見込みについては明らかにしていない。
19年に創業したシンガポールの「タートル・ツリー」は、母乳中に含まれるヒトの乳腺上皮細胞を抽出し、それを培養して母乳を作る予定だったが計画を変更。微生物に特定の成分を作らせる「精密発酵」で、乳成分の一つでたんぱく質の「ラクトフェリン」をつくる方針にかじを切った。
生産コストは高額
培養ミルクの製造方法
欧州やカナダのベンチャーも、細胞培養で牛乳を生産するとしているが、具体的な計画まで公表していない。果たして、培養ミルクは実現できるのだろうか。
ウシの乳腺上皮細胞からミルクをつくる研究に取り組む北海道大の小林謙准教授(細胞生理学)は、実現までに細胞培養のコスト削減や自動化などが必要になると指摘する。
小林さんによると、乳腺上皮細胞にミルクを産生させるには、生体に近い環境を整えることが重要で、細胞密度や細胞の向き、細胞を増やすための栄養素を安定的に供給する必要がある。「現時点での培養ミルクの製造原価は通常の牛乳よりも高額だが、今後の培養技術の発展により生産コストが下がる可能性がある」と話す。
世界では精密発酵によってミルク成分を作る研究も進むが、大量かつある程度安く作れるというメリットがあるものの、細胞培養に比べると複雑な成分を一度に作るのが難しい上に、他の微生物が誤って混入する可能性もあるという。
培養したウシの乳腺上皮細胞。ミルクの産生を誘導した様子(白く丸い部分がミルク成分の脂肪滴)=小林謙・北海道大准教授提供
「(生産方式は)生体と同じミルクを完全に再現する細胞培養か、コストバランスを考え、いくつかの成分だけの生産を狙う精密発酵か。研究の裾野が広がれば、細胞培養でも、そう遠くない未来に実現できるのでは」と小林さんは語る。
30年には、世界人口の増加により、たんぱく質の需要に供給が追いつかない「たんぱく質危機」が訪れると予想されている。また農業や酪農で排出されるメタンガスは、地球温暖化の原因の一つと指摘されている。培養ミルクには、食糧・環境問題への対応策の一つとなり得るという期待も寄せられている。【菅沼舞】