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毎日新聞2024/7/4 18:00(最終更新 7/4 18:00)有料記事2062文字
蚊の科学 その生態を応用する
蚊の季節がやってきた。飛び回っている蚊を見つけたら、血を吸われる前に仕留めたい。逃がさないためにはどうたたけばいいのか。蚊の上下から垂直にたたくべきか、手を広げ水平に左右から挟むべきか。そんな問いに挑んでいる研究者がいる。
暗闇でもぶつからずに飛べる理由
「蚊はどのようにたたけばいいのか、よく聞かれるんです。上からたたけばいいという説がありますが、本当のところはどうなのか気になりますよね」。千葉大学大学院工学研究院の中田敏是(としゆき)准教授は、昆虫や鳥が空気をどのように使って飛んでいるのか研究している。
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中田さんは2017年に「ネイチャー」、20年には「サイエンス」と、蚊の飛び方に関する論文を英国の王立獣医科大の研究者らと共に発表した。蚊を研究対象に決めたのは英国で研究していた十数年前、研究仲間から「蚊が暗闇でも壁や床とぶつからずに飛べるのはなぜか。一緒に調べないか」と声を掛けられたのがきっかけだ。
まず挑んだのが蚊の飛ぶ仕組みを知ることだった。8台の高速度カメラを使って、1匹の蚊が、カメラが捉えられるわずか2センチ四方の狭い範囲に現れるのをひたすら待った。1日に1回あるかないかのタイミングを逃さずシャッターを切った(1秒間に1万回撮影)結果、他の昆虫では見られない特殊な羽ばたき方を確認できた。
蚊は昆虫の中でも羽ばたく数が圧倒的に多い。オスの場合は1秒に600回、メスは400回ほどだ。トンボが50回、比較的回数が多いミツバチやショウジョウバエも200回というのだから、突出している。理由ははっきりしないが、求愛のためのコミュニケーションに羽音を使っていることは知られている。
では、蚊に特有の羽ばたき方とはどのようなものだったのか。
昆虫の飛び方は鳥や飛行機とは異なる。羽ばたいて空気が昆虫の羽を通り過ぎる時、台風のような渦を羽の前方で作り出し(前縁渦)、羽の上の気圧を低くする。空気は気圧が低い方へ流れるため、上に吸い上げる力が働いて飛ぶことができるのだ。
蚊の羽ばたきと空気の流れ
蚊もその力を使っているが、羽は小さく、振幅も小さい。それを補うためか、羽の後ろにも渦を作り(後縁渦)、羽を勢いよく回すことで生じる空気の力(回転抗力)も使っていることが中田さんらの研究で明らかになった。今のところ、他の昆虫では見つかっていない特殊なメカニズムだ。
蚊の「逃げ方」を調べる研究へ
この飛び方が解明されたことで、蚊が暗闇の中で障害物を検知する仕組みの研究も加速した。
中田さんらは蚊の羽ばたきで生じる気流をシミュレーションによって再現し、蚊の触角付近の気流の変動を調べた。すると、羽ばたきで起きる気流は、壁や床などにぶつかると乱れ、蚊の触角を揺らしていた。蚊は触角で音や空気の振動を感じることができる。気流による触角のわずかな揺れを感知し、障害物が近づいたことを把握している可能性が高まった。
わずか体長4ミリの蚊だが、30~40ミリ離れた場所の気流の変動も感知できるという。人間に置き換えれば、ビルの4階か5階の高さから、自分の動きで生じた空気の流れを感じ取れることになる。中田さんは「コウモリのように超音波を出して飛ぶ動物もいるが、蚊は自分自身の羽ばたきによってできる空気の流れを『再利用』して飛んでいる。とても賢い生き物だと思う」と話す。
中田敏是・千葉大大学院工学研究院准教授。手にしているのは蚊が障害物を検知する際の空気の流れを表した模型=千葉市の千葉大学で2024年5月24日、金秀蓮撮影
この蚊の能力は、英国の研究仲間の手によって、空気の圧力を感じるセンサーを搭載し、障害物への接近を検知できるドローンの開発につなげられた。
では中田さんは、どのように蚊をたたくべきだと考えているのか。「蚊はしきりに、羽ばたきの周波数(時間当たりの羽ばたく数)を変えて飛ぶ。周波数を切り替える時に体は上へ向かうはず。だから、横からたたくと上に逃げられてしまうのでは」と、飛んでいる蚊は上下に挟んでたたく方が、仕留められる確率が高いとみている。
ただ、この研究はまだ始まったばかりだ。蚊を上から、そして横からたたくロボットを作り、蚊がどのように逃げるのか、これから検証するという。まずは止まった蚊をおどかした時にどちらへ逃げるのか、生きた蚊を使って調べるつもりだ。
人命救助にも役立つ?
蚊の能力を応用しようとする取り組みはこれだけではない。中田さんは信州大や慶応大と共同で、蚊がヒトを見つけ出す優れた能力に注目した研究を進めている。
蚊の感知能力
蚊はヒトから10メートル以上離れた場所で二酸化炭素(CO2)を感知し、その後、視覚情報とにおいを頼りにヒトに近づく。最終的には熱と水分の情報を使って皮膚に降り立つ。これらの情報を受け取るためのセンサーを備えた触角を搭載したドローンを開発できれば、災害発生時に被災者をがれきの中からいち早く見つけられるかもしれない。
中田さんは「蚊はヒトの血を吸ったり、感染症を媒介したり悪い意味で影響の大きな存在となってしまったけれど、その能力は悪いことばかりではないかもしれない。人間に役立つところもあると見せられればいいなと思っている」と語った。【金秀蓮】