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毎日新聞2024/8/6 地方版有料記事964文字
無我夢中。一心不乱。
そんなふうに仕事や勉強に集中できたら、どんなにいいだろう。でも、それは難しい。
ただ人は時々、時間を忘れて何かに打ち込むことがある。楽しいことやすてきなことである必要はない。むしろ、なるべく単純なことの繰り返しの方が、夢中になれるのではないか。
私がいま仕事をしている小さな町では、多くの人が一生懸命やっているのが草取りだ。家庭菜園や花畑、家の周りなど、それこそ一心不乱に雑草を抜いている人たちがいる。
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診察室で「草取り、たいへんですね」と言うと、ある高齢の女性が話してくれた。
「いいえ、先生。夫が亡くなって1人暮らしになって寂しい毎日ですが、外に出て無我夢中で手を動かしている間は、何も考えなくていいんです。『ああ、今日もよくやった』とクタクタになると、なんだか自信も湧いてきて。仕事じゃないから気ままにできるし」
男の人たちは、夏の間に木を割って冬用のまきを作る。これまた「大好きなんだよね、この作業」と言う人が多い。
何も考えずに手を動かす。これが気持ちの安定にもつながることは、古くから知られていた。精神科では、薬による治療ができるようになる前から「作業療法」という名で農作業や土木作業などが行われていた。ストレスがたまっている人はその発散になるし、不安や悲しみがある人はただただ手を動かすことでそれを忘れられる。知らない間に体のストレッチや深呼吸もできているだろう。
都会の生活では、なかなかこの「単純作業の繰り返し」をするのも難しい。草取りもないし、「ちょっと池でも掘るか」というわけにはいかない。その代わりにできることといえば、ひたすら足を動かす散歩や縄跳び、昔の「手まり遊び」のようにボールをつくといった軽い運動だ。
朝から夜まで診療所にいて草取りができない私は、帰宅してから小さな電子ピアノで同じ練習曲を何度も弾く。もう弾き飽きているのだが、その間はやっぱり何も考えなくて済むからだ。それから、キャベツの千切りも時々やってみる。これまた気持ちがとても安定する。
手や足を動かして、考えるのをやめてみる。ちょっとした安定剤を飲むより効果があるかもしれない。さて、あなたにとって一番良い方法はなんだろう。草取りやまき割りにかわる「私の手仕事」、ぜひ教えてもらいたい。(精神科医)