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毎日新聞2024/8/8 06:00(最終更新 8/8 06:00)有料記事1760文字
「とろみコーヒー」。スプーンですくうと、その名の通りとろっとしているのが分かる=名古屋市東区のコメダ本社で2024年7月29日午後1時56分、田中理知撮影
一息つきたい時、落ち込んだ時、うれしい時、仕事に身が入らない時、私は何かにつけてコーヒーを飲む。気付けば1日に4、5杯飲むこともあって、日々の生活に欠かせない存在だ。
喫茶店文化が根付く名古屋市に本店があり、国内外に展開する「コメダ珈琲店」が5月、一部店舗で新商品「とろみコーヒー」の販売を始めた。その名の通り、とろみのついたコーヒーで、飲み込む力の弱くなってきた人でも安心して楽しめるという。
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「どんな味なんだろう」と興味が湧いた。ホームページの商品紹介には「コーヒーからの卒業を遅らせたい」と書かれている。開発への思いも気になって、取材を申し込んだ。
開発のきっかけは4年前の春、マーケティング本部長の伊藤弥生さんが友人と会話をしていた時のこと。「コーヒーにとろみをつけるとおいしくなくなっちゃうんだよね」。介護職の友人はそうこぼした。そしてこう続けた。「おいしいコーヒーを作ってよ」
コメダのマーケティング本部長、伊藤弥生さん=名古屋市東区のコメダ本社で2024年7月29日午後1時57分、田中理知撮影
食べ物を飲み込むことが難しい「嚥下(えんげ)障害」の患者は、国内に100万人以上いるとされる。固形物はもちろん、サラサラとした飲みものも、うまく飲み込めずむせてしまったり、気管に入って肺炎を起こしたりすることがある。
伊藤さんは「介護現場でそんな悩みがあるとは正直、ほとんど知らなくて……」と当時を振り返る。「いつまでも安心して飲んでもらえるコーヒーを作りたい」。そんな思いから、とろみコーヒーの開発を始めた。
ただ、道のりは険しかった。試しにコーヒーにとろみ剤を混ぜてみたが、味を感じづらい。香り、味、粘度……。とろみ剤も種類によってさまざまな特徴がある。深いコクが特徴のコメダのコーヒーらしさも再現させたかった。20通りほど掛け合わせて試飲を繰り返し、少しずつ理想に近づけていった。
もちろん、商品化するには安全性が大前提となる。医療監修を請け負った、嚥下障害に詳しい朝日大(本部・岐阜県瑞穂市)の谷口裕重教授(46)は、とろみコーヒーを試飲して驚いた。
医療監修した朝日大の谷口裕重教授=谷口教授提供
介護食は、飲み込みやすいようにミキサーでつぶし、ドロドロになったものが一般的。味や見た目よりも安全性が重視される。でも、とろみコーヒーは味や香りも申し分なかった。「嗜好(しこう)品として捉えていて、おいしくて感動的でした。医療業界と外食産業の目線が合致した感じがしました」
入院患者らにも協力を仰いだ。試飲した患者の中に80代の男性がいた。重度の嚥下障害で、チューブで胃に栄養を送る「胃ろう」の状態だった。でも、以前は1日3回も店を訪れていたという無類のコメダ好き。「コメダのコーヒーを飲みたいから頑張る」とリハビリを重ね、とろみコーヒーを少しずつ口に運べるようになっていったという。
これがきっかけで、男性はペースト状の食べ物を口から取れるまでに回復した。「おいしさや香りは、食べる訓練をする時の大きなモチベーションになる。『味わって食べられる』というのがキーワードになるんです」。男性のうれしそうな姿に、谷口教授はそう実感した。
その後、男性は転院先の病院で亡くなった。家族は谷口教授にこう話したという。「最後に食べたいもの、飲みたいものを取らせてあげられて良かった」
とろみコーヒーは2022年に通販をスタートさせ、いまでは全国265店舗でも楽しめるようになった。
「とろみコーヒー」の開発会議の様子=2022年(コメダ提供)
パッケージには「のんびり行こうよ」とある。開発にかかった時間は約2年半。「パッケージ通りになりました」と伊藤さんはほほえみ、「爆発的なヒット作でなくても、飲み込みづらさのある人に寄り添い、飲みたいと思ってもらえるように心がけてきた結果です」と話す。
伊藤さんにはさらなる夢がある。とろみコーヒーのように嚥下障害のある人でも楽しめるものが他の飲食店にも広がって、徐々に選択肢が増えていくことだ。「外に出て、コーヒーを楽しむ時間が、長く続けばと思っています」
コーヒーから卒業しなければいけない日が来るかもしれないなんて、考えたことがなかった。いくつになっても、どんな状況でも、飲食を楽しみたい。それがかなう社会が、この先もっと広がればいいな。食後にとろみコーヒーを味わいながら、そんなことを思った。【社会部中部グループ・田中理知】
<※8月9日のコラムは社会部東京グループの銭場裕司記者が執筆します>