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毎日新聞2024/8/5 07:30(最終更新 8/5 07:30)有料記事2465文字
人工衛星の模型を前にアクセルスペースの担当者と話をする東京海上日動の吉井信雄さん=東京都中央区で2024年7月3日、渡部直樹撮影
民間ロケットの打ち上げや人工衛星データを用いた事業が、世界的に注目されている。そこになくてはならないのが、不測の事態に備える「宇宙保険」だ。通常の損害保険とはまったく次元の異なる世界。華々しい宇宙事業を裏でどう支えているのか、保険開発のスペシャリストに密着した。
世界にわずか100人
東京・日本橋にオフィスを構える小型の人工衛星開発ベンチャー「アクセルスペース」。「(人工衛星の姿勢を制御する)安価なジャイロが四つあれば、保険金もずいぶん違ってきますね」――。
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人工衛星の模型を見ながらアクセルスペース社の幹部と熱心に話す東京海上日動火災保険の吉井信雄さん(57)は、ロケットの打ち上げや衛星などの、事故やトラブルの備えとなる「宇宙保険」のプランを考える保険引受人(アンダーライター)だ。高い専門性が求められ、同様の業務にあたる人は世界中に100人程度しかいないという。
宇宙にまつわるビジネスでは、保険が必要なタイミングがたくさんある。ロケットなら、打ち上げに失敗して爆発する最悪の事態のほか、陸上での輸送中の事故や、月面を探査する車両に通信トラブルが発生した場合も対象となる。
数千億円規模の保険金
スペースポート紀伊から打ち上がり、爆発した民間の小型ロケット「カイロス」初号機=和歌山県串本町で2024年3月13日、本社ヘリから
宇宙保険は一般的な損害保険とは一線を画す特殊な世界だ。
通常の自動車保険や火災保険は、過去の事故や火災の膨大なデータを基に、損害が発生する確率を計算。さまざまなリスクを細分化して定型の保険プランを提供している。多くの人が加入しているため、保険料はその分安くなる。
一方、宇宙保険は、ロケットや衛星の打ち上げなどのデータが少なく、打ち上げが失敗すればすべて失われ、損害は巨額になる。大手損保の関係者は「(損害は)ゼロか100かの極端な結果になりやすい」と語る。事故確率が高く、保険加入企業は少ないため、保険料は非常に高額になる。
例えば100億円の保険金支払いを希望するなら、10億~20億円の保険料を払う必要があるという。また、定型の保険プランは存在せず、衛星の種類などに応じて各案件ごとにオーダーメードで作ることになる。
打ち上げ失敗などで多い時には計数千億円規模の保険金の支払いが生じる。特に2023年は、KDDIなどが利用する通信衛星の故障などが多発。国内外の宇宙保険市場全体で、保険料収入(約6億ドル=約900億円)に対し、3倍の約18億ドルの保険金支払いが発生。大赤字になり、保険料が急騰した。
途方もないリスクを見定めるために必要となるのが、吉井さんらアンダーライターだ。まずは、ロケットや衛星を打ち上げたい事業者から計画や使用する機材について詳細な話を聞く。例えば、これまでに打ち上げの実績が多数あり、成功率が高いロケットを使う場合は保険料を抑えられるが、まだ数度しか打ち上げ実績がないロケットだと、引き受けることすらできないケースもある。
「我々もビジネスでやっている。何でもかんでも引き受けることがサポートではない」と吉井さんは語る。自身の知識や経験を総動員し、ビジネスの中身を吟味していくのが仕事の肝だ。
事業者から話を聞いた後は、保証内容を記した約款を作る。宇宙に放たれた衛星はたとえ故障しても、修理することはできない。そのため「どんな物が壊れたときに、いくら支払うか」について、さまざまなケースを想定して細かく決めておかないと、リスクに対応できない。
パートナーは海外企業
人工衛星の模型を前にアクセルスペースの濱田知則さん(右)と話をする東京海上日動の吉井信雄さん=東京都中央区で2024年7月3日、渡部直樹撮影
巨大なリスクを分散するため、宇宙保険では損保10~20社が共同で引き受けることが多く、東京海上が組むのは海外の保険会社になる。このため吉井さんは海外出張し、現地のアンダーライターと共に企業側のプレゼンを聞いて引き受けの可否を判断する。
時には衛星やロケットの工場まで出向くこともある。国内企業向けの保険の場合は、その企業の担当者と一緒に資料を作ったり、海外の引受先のアンダーライターの質問に応じるための想定問答を考えたりする。
厳格にリスクを分析しているだけに、事業が成功したときの喜びはひとしおだ。ロケット打ち上げの際は現場に何度も足を運んでおり、「保険金(支払い)が生じるかどうか(その場で)分かるのは、宇宙保険が唯一ですね」と笑う。
吉井さんは1989年に日動火災海上保険(現・東京海上日動火災保険)に入社。97年から、宇宙保険事業に関わっている。特に宇宙に興味があったわけではなく、人事異動でたまたま配属され、「最初は何が何だか分からなかった」と苦笑いする。
コンサルタントのような存在
民間人4人が搭乗して打ち上げられた宇宙船クルードラゴンのドーム型の天窓。船内からは360度の眺望が得られる=スペースX社のツイッターから
猛勉強を重ね、今では宇宙事業を始めようとする人たちから、「どうすれば保険を引き受けてもらえるか」と相談される立場になった。アクセルスペースで保険契約の責任者を務める濱田知則さん(53)は「吉井さんは(世界中のロケットなどの)過去の実績や問題点など、いろいろな情報を持っている。(保険の引き受けで)衛星のどの部分に着目すべきかが分かり、とても助かる」と話す。企業と伴走するコンサルタントのような役割も果たしているのだ。
開発中のロケットの工場内で取材に応じる堀江貴文さん(左)ら=北海道大樹町で2020年12月21日、鈴木斉撮影
宇宙開発は近年、「官から民へ」の動きが顕著だ。実業家のイーロン・マスク氏が率いる米スペースXなど、民間企業がロケットを打ち上げたり、精緻な衛星画像を政府に提供したりしている。経済産業省によると、日本の宇宙産業の市場規模は約4兆円。40年までに世界の市場規模は146兆円規模(米モルガン・スタンレー調べ)になると予測されている。
日本の宇宙産業は宇宙航空研究開発機構(JAXA)など「官」を中心に発展し、欧米ほど民間事業の収益化は実現していない。吉井さんは、失敗がつきものの宇宙ビジネスの中で損保が担ってきた「リスク管理のノウハウ」を、少しでも日本の宇宙産業の振興に生かしたいと考えている。
「保険は(ビジネスの)一番後ろから支えるところだけれど、引き受けを通じて知識を培ってきた。それを企業に還元していくのが使命です」。宇宙に向かうロケットや人工衛星には、アンダーライターの夢も詰まっている。【井口彩】