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毎日新聞2024/9/17 11:00(最終更新 9/17 11:59)有料記事5165文字
トイレに設置されているハンドドライヤー。新型コロナウイルス禍では軒並み使用が禁止された=東京都千代田区で2024年9月9日、和田大典撮影
新型コロナウイルス禍において、これほど理不尽な扱いを受けたものはない。トイレに設置されているハンドドライヤーだ。
ぬれた手に風を送って乾かす仕組みだが、手についた菌を拡散させ、感染を広げる恐れがあるとして2020年5月に使用禁止となった。
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だが、実はこうした対応が取られたのは日本だけだった。
「なぜこんなことになったのか。今も分かりません」
ハンドドライヤーの中小メーカー、東京エレクトロン(神奈川県)の井上聖一社長(74)は言う。
東京エレクトロンの井上聖一社長。会社の売り上げは急減し、今も回復の道は見えない=神奈川県愛川町の本社で2024年6月12日、川上晃弘撮影
使用禁止によって会社の売り上げは10分の1にまで急減し、社員は半減して5人になった。
井上社長は危機感を覚え、ハンドドライヤーが感染を拡大させるのか自ら実験し、その安全性を証明した。「科学的に安全と判明しています」。そう言って取引先を回ったが、相手にされなかった。
「大手メーカーと異なり、うちはハンドドライヤーだけの会社。致命的でした」。本社を移転し、経費削減を進めたが、今も売り上げはコロナ前の4割ほどで、回復の道は見えない――。
コロナ禍ではマスク着用などさまざまな感染対策が講じられた。
不合理とも言える対策はいくつかあったが、ハンドドライヤーはその象徴だった。
感染拡大につながらないことが科学的に「確認」された後も、大半のトイレで使用禁止が続いたのはなぜか。その理由を探ると、科学に基づいて安全性を判断する難しさと、誰もリスクを取ろうとしない日本の「無責任体制」が見えてくる。
参考例のはずが……
使用禁止のきっかけは20年5月4日に開かれた専門家会議だ。
2020年5月4日の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が開かれた会場。専門家会議はこの日、業界団体に感染防止ガイドラインの作成を要請した=東京都千代田区で同日午前8時31分、玉城達郎撮影
専門家会議はこの日、スーパーやレストラン、旅館といった各業界団体に対し、それぞれ独自に感染防止ガイドラインを作成するよう要請した。
オフィスビルや病院、工場など職場ごとに感染対策の内容が異なり、きめ細かな対応が求められることが背景にあった。
要請の際、専門家会議はガイドラインを作るうえでの「基本的な考え方や留意点の例」を列挙した。
そこに「手洗いや手指消毒の徹底を図る」という文言などとともに「ハンドドライヤーは止め、共通のタオルは禁止する」という項目が入っていた。
2020年5月4日に専門家会議が発表した「基本的な考え方や留意点の例」。ここに「ハンドドライヤーは止め、共通のタオルは禁止する」との文言があった。これをきっかけにハンドドライヤーは国内で一斉に使用禁止となっていく=川上晃弘撮影
専門家の一部には、感染リスクがあるとしてハンドドライヤーをやめるべきだとの声があったためだ。
専門家会議に携わった医療関係者は振り返る。
「ガイドラインの設置主体は、あくまでも業界団体。私たちは、その参考例を羅列した。例えば病院と図書館のトイレでは感染対策も違う。それぞれの業界団体が、参考例を取捨選択してくれるものだと考えていた」
しかし、実態はそれとは異なる形で動き出した。
軒並み「使用禁止」に
大手スーパーなどが加盟する日本チェーンストア協会の担当者に経済産業省からメールが届いたのは20年5月の連休中のことだ。
専門家会議がガイドライン作成を要請した直後だった。
「ガイドラインを作ってくれという内容でした。ただ、どんな対策を取れば感染防止になるのか、私たちには何の知識もありません。正直、不安でした」。担当した理事はそう打ち明ける。
幸いにと言うべきか、メールにはガイドラインのひな型ともいうべき文書が添付されていた。
「期限は10日ほどしかなく、結局、ほとんどひな型通りのガイドラインを作ることになりました」
ハンドドライヤー禁止の記載も、そのまま盛り込まれた。「科学者が集まった専門家会議が言っているのですから、特に反対する理由はなかったです」
新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、使用が禁止されたハンドドライヤー=東京都渋谷区で2020年、竹内紀臣撮影
関係者によれば、ガイドラインの作成を巡っては、ほとんどのケースでこうした政府によるサポートがあった。
完成したガイドラインに問題があると判断されれば、直すことも求められた。
「業界団体の多くはコロナについて専門的な知識を持っておらず、そうした行為は不可欠だった」と政府関係者は明かす。
当然ながら、その助言内容は専門家会議の「基本的な考え方や留意点の例」に沿ったものだった。
こうして、あくまでも「参考例」だったハンドドライヤーの使用禁止はほとんどのガイドラインに盛り込まれることになる。
もちろん、ガイドラインに法的な強制力はない。しかし、国民の受け止め方は違った。コロナが猛威を振るうなか、ガイドラインの威力は絶大だった。
業界団体のガイドラインが示されると、日本中のトイレのハンドドライヤーには次々と「使用中止」の紙が張られた。
経団連、異例の緩和
ハンドドライヤーのメーカーは反発し、大手の三菱電機は海外の文献を集めるとともに、自ら実験した。そしてハンドドライヤーだけがとりわけ感染拡大につながるものではないことを立証してみせた。東京エレクトロンも独自の実験結果を明らかにした。
そうした動きを受け、「オフィス」と「製造事業所」に向けたガイドラインを作成していた経団連は21年4月に記者会見し、ハンドドライヤー禁止の項目削除を発表した。業界団体が率先してガイドラインを緩和することは極めて珍しかった。
海外におけるハンドドライヤーの使用状況=経団連資料より
海外におけるハンドドライヤーの使用状況=経団連資料より
経団連は用意周到だった。
発表前、専門家会議のメンバーだった医療関係者に実験結果などを示し、ハンドドライヤーに問題がないことの「お墨付き」をもらっていた。政府にも事前に根回しして、承諾を得る念の入れようだった。
この経団連の行動を踏まえると、こうとも言える。
専門家や政府関係者の間では遅くとも21年4月時点で、ハンドドライヤーが特に感染を広げるものではないことが共通認識になっていた――。
ただ、事態は動かなかった。
緩和阻む役人、業界も尻込み
21年当時、新型コロナの感染者数は依然として拡大局面にあり、規制強化を求める世論は強かった。医療逼迫(ひっぱく)を防ぐため、総力を挙げてコロナ対策が進められていた。
集中治療室で新型コロナ患者の対応をする看護師。感染拡大時は各地で病床が逼迫した=東京都港区の虎の門病院で2021年7月30日午後5時51分、幾島健太郎撮影
政府は経団連のガイドライン改定を「黙認」しつつ、他の業界団体がガイドラインを緩めることには極めて消極的だった。
政府側からすれば、感染拡大が続くなか、ハンドドライヤーだけを緩和することはあり得ないことだ。病床が逼迫するなか、ハンドドライヤーの使用の是非について政府内で議論されるような状況ではなかった。
緩めるような動きがあれば、政府の役人は巧妙な言い方で止めようとしたという。ある業界団体の担当者はにがり顔で証言する。
「改定の話になると『本当に緩めて大丈夫ですか』って尋ねてくる。そして『このガイドラインはあなた方が作ったものですからね』とくぎを刺し、責任はこちらにあると示してくる。我々は省庁から言われた通りにガイドラインを作っただけなのに、そう言われるとこちらも動けなくなる」
別の業界団体関係者も同様の思いを抱く。
「省庁からはガイドラインの強化を求めるメールが何度も来て、そのたびに言う通りにしてきた。でも、緩める話になると、急に『ガイドラインの設置主体は業界団体ですよ』って態度になる。都合良く対応を変えていると思いましたよ」
一方、業界団体側も、改定に乗り気ではなかった。感染拡大が続くなか、ガイドラインを緩和すれば大きな批判を招くリスクがあった。科学的に問題がなくても、貧乏くじは引きたくない。
外食産業のチェーン店などが加盟する日本フードサービス協会は、三菱電機の担当者からハンドドライヤー禁止の訂正を求める連絡があったものの断ったという。
石井滋常務理事は「経団連さんのガイドラインはオフィスビルが対象だが、私たちが相手にしているのは不特定多数のお客さん。一緒ではないと思った」と振り返る。
そのうえで「正直なところ、業界団体が率先してガイドラインを緩めるのは難しいです。たとえそれが正しいことでも、感染拡大につながったら業界が悪いということになってしまう」と苦しい胸の内を明かす。
新型コロナ禍における各国のハンドドライヤー使用状況
日本チェーンストア協会も改定に応じなかった。「経団連から実験結果や文献を示されたが、スーパーに来てくれる客への説明が難しくて見送った。加盟企業からも『どうしようか』と問い合わせがあったが、改定しないと伝えた。当時はガイドラインを緩めるという雰囲気ではなかった」と担当理事は話す。
取材した他の業界団体のなかには、自身がガイドラインの設置主体であるという意識が薄いところも多かった。ただ、コロナの専門知識のない業界団体に独自の対応を求めるのは酷だろう。
科学的根拠のない「ハンドドライヤー禁止」の記載は、多くのガイドラインで残り続けていった。
コロナほぼ収束、やっと「使用可」に
猛威を振るった新型コロナも22年になると変化の兆しがあった。
9月、世界保健機関(WHO)の事務局長は「パンデミックの終わりが視野に入っている」と述べた。コロナの重症化率が下がったことを受け、日本政府も水面下で5類移行の議論を始めた。
菅義偉首相(当時、右)との会談に臨んだ世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長=東京都港区の迎賓館で2021年7月22日午後2時40分(代表撮影)
政府は10月、「業種別ガイドラインの見直しのためのポイント」を公表した。業界団体にガイドラインの緩和を求めたもので、日常を取り戻すための動きの一環だった。
「見直しのためのポイント」では「屋外ではマスク着用は原則不要」「ハンドドライヤーは使用可」などが具体的に打ち出された。
政府が初めて「使用可」と認めた影響は大きかった。政府関係者によると、これによって「ハンドドライヤー禁止」の記載はほとんどのガイドラインでなくなった。
経団連でコロナ対策を担った正木義久ソーシャル・コミュニケーション本部長は強調する。「私たちが他の業界団体に働きかけても反応は鈍かった。いくら科学的に大丈夫と説明してもダメでした。タイミングは遅かったが、政府が動けば変わるのだと改めて思いました」
絶対だった「お客様の声」
しかし、決して対応を変えない業界もあった。その一つが日本チェーンストア協会だ。
科学的な根拠より、政府のお墨付きよりも、強いものがあった。「お客様の声」だ。
「私たちが相手をしているのは顧客です。国がOKしても、顧客から『絶対に大丈夫なの?』と聞かれたら、困ってしまう。科学的には大丈夫だろうと私も頭では理解しています。政府が認めていることも分かっています。でも、そういう問題ではなくなっていたのです」
全国のトイレのハンドドライヤーに張られた「使用禁止」の紙がすべて外されるのは、コロナの感染症法上の位置付けが季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に引き下げられる23年5月以降まで待たなければならなかった。
新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが「5類」に移行され、撤去される総合案内所の飛沫(ひまつ)防止シールド=福岡市内のデパートで2023年5月8日午前9時29分、矢頭智剛撮影
「風評被害」とメーカー社長
「科学的に安全と分かれば、世間は必ず理解してくれるはず。私はそう信じていたんですが……」
東京エレクトロンの井上社長は、今も無念そうに当時を振り返る。
井上社長の批判の矛先は、政府にも向かう。
特に納得できないのは、WHOがペーパータオルとともにハンドドライヤーの使用を奨励していたにもかかわらず、日本だけが使用禁止となったことだ。
そして安全性が確認されてからも、ずっと使用禁止が続いたことである。
「政府は何度も訂正する機会はあった。対応があまりに遅すぎではないか」
国を訴えようと弁護士に相談したこともあったが、費用と時間がかかりすぎることから断念した。
実は09年に新型インフルエンザが流行した際、東京エレクトロンのハンドドライヤーの売り上げは急増した。
非接触で手を乾かせるため、感染防止につながるとみなされていたからだ。
井上社長は新型コロナでも同様に売れると考え、中国からハンドドライヤー300台を緊急輸入するとともに、韓国の関連会社でも増産させた。
しかし、輸入した300台は大半が売れ残った。
売れ残ったハンドドライヤーの在庫を見上げる東京エレクトロンの井上聖一社長=神奈川県愛川町の本社で6月12日、川上晃弘撮影
会社は生き残りを図るため、東京都多摩市にあった本社を22年春、工場のある神奈川県愛川町に移転した。最寄り駅からバスで50分ほどかかる場所だ。
「なぜ日本だけ?」と悔しさをにじませながら井上社長は言った。「一度でも『悪』とみなされると、巻き返しはできない。あの時のことを私は今でも風評被害だと思っています」
識者「コミュニケーションが大切」
当時、公衆衛生の観点からコロナ対策に関わった国立国際医療研究センターの和田耕治医師は「コロナ禍ではガイドラインなどをもとに多くの感染対策が講じられたが、それらを『やめる』時期や、誰がそうした判断をすべきかについては教訓が残った。感染リスクに応じ、現場だけの判断で一部の対策をやめることは簡単ではない」と指摘する。
和田耕治医師=東京都千代田区で2020年6月9日、佐々木順一撮影
そのうえで「一つの対策を『やめる』か『やめない』かで議論すれば『やめない』という結論になってしまう。ただ、最後は科学だけでなくコミュニケーションも大切である。医療関係者や政治家が一方的に決めるのではなく、市民や現場との対話を根気よく続け、当事者たる市民も納得できる対策を取ることが目指すべき方向だと思う」と語った。
【川上晃弘】