11>キリストの律法に対しての正しい理解。<要約>
<コリント第一9:20-21>.2024.10.20.<主日>大阪愛する教会、金好日牧師。
旧約時代には律法を通してイスラエルの民たちに契約の民として守るべき義務が与えられたのです。そして、新約時代の聖徒たちにはキリストの律法が与えられ信じる者たちが義務を果(は)たせるようにされたのです。ですから、旧約時代と新約時代の信じる者たちには皆、天の父なる神様との結(むす)んだ契約に従うべき義務が与えられたのです。それで、信じる者は従(したが)う事が信仰生活なのです。使徒パウロは律法の下にあるわけではなく、キリストの律法の下にあると言ったのです。それは、これからは自分自身もキリストの律法を守らねばならないという事なのです。無律法(むりっぽう)主義(しゅぎ)と律法(りっぽう)主義(しゅぎ)は異端(いたん)です。初代教会のリゴラルトウというグループがあったのだが、彼らは無律法主義者として律法主義者たちに劣らずに教会に混乱(こんらん)をもたらしたのです。新約時代の聖徒たちは律法から自由になったのだが、キリストの律法の下にある事を知らないと無立法主義者になるため注意せねばならないのです。では、キリストの律法は何でしょうか。
それは、キリストが完成させた律法なのです。キリストの律法はモーセの律法を通して啓示(けいじ)された天の父なる神様の御心を完全に示された事を意味するのです。<マタイ5:17>私が来たのは律法や預言者を廃止(はいし)するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。この御言葉は、キリストの律法を意味するのだが、律法の根本的(こんぽんてき)な意味(いみ)を完全に示された事を意味するのです。<ガラテヤ書6:2>互(たが)いに重荷を担(にな)いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うする事になるのです。この御言葉は、お互いに助け愛し合う事によってキリストの律法を全うしなさいという事なのです。<ヤコブ書1:22-25>御言葉を行う者になりなさい。自分を欺(あざむ)いて聞くだけで終わる者になってはいけません。
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡(かがみ)に映(うつ)して眺(なが)める人に似(に)ています。鏡に映った自分の姿(すがた)を眺めても立ち去ると、それがどのようであったかすぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は聞いて忘れてしまう人ではなく行うのです。このような人はその行いによって幸せになります。
この御言葉は、ヤコブ使徒が律法を完全な律法であると言ったのです。キリストの律法はキリストが完全にされた律法なのだが、聞いて忘れる事なく実践(じっせん)せねばならない律法なのです。<ヤコブ書2:12>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、また振(ふ)る舞(ま)いなさい。この御言葉は、自由の律法を強調しながら、この律法によって、いずれは裁かれる者として語り行いなさいという事なのです。ユダヤ人たちはモーセの律法を基準として裁かれるのです。律法が彼らの法だからなのです。しかし、私たちはキリストの律法の下にいるのです。ですから、キリストの律法を守れば裁(さば)かれる日義とされるのを得られるのだが、それは、実践する人生を。歩(あゆ)まねばならないという事(こと)なのです.
<ヨハネ12:47-48>私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒(こば)み、私の言葉を受け入れない者に対しては裁くものがある。私の語った言葉が終わりの日にその者を裁くで。この御言葉は、イエス様の御言葉を守ったのかどうかを終わりの日に必ず裁かれるという事なのです。イエス様は律法を廃止されるために来られた事ではないのです。完全にされるために来られたのです。
ここで言う律法と預言者は旧約聖書の全体を意味し、完全にされるために来られたとは、イエス様がモーセの律法の意味を完全に示された事を意味するのです。そして、預言者たちの予言、即ちメシアがお産まれになるという予言を成(な)し遂げるために来られたという意味なのです。天地が消えうせるまで律法の一点一画も消え去る事はなく全ての事を成し遂(と)げるという御言葉なのです。イエス様は律法を全て守ると言われたのではなく全て成し遂げると言われたのです。
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イエス様の御言葉を守ったことを終わりの日に必ず裁かれる事きもに命じます、アーメン