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毎日新聞2024/8/22 06:00(最終更新 8/22 06:30)有料記事2004文字
熊本県に疎開した伊波国民学校の元児童らが作成した疎開記録集の中で、祖母は当時を振り返っていた=2024年8月21日、喜屋武真之介撮影
第二次世界大戦中だった1944年8月22日夜、沖縄から九州に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の攻撃を受けて鹿児島県・悪石島近くで撃沈された。判明しているだけで乗船者の8割を超える1484人が犠牲となったが、沈んでいく対馬丸のすぐ近くを航行していた船があった。対馬丸とともに那覇港を出た疎開船「暁空(ぎょうくう)丸」だ。この船の甲板で魚雷におびえ身を寄せ合っていた子どもたちの中に、私の祖母、勢津子もいた。
勢津子の父、つまり私の曾祖父である伊波秀善(いはしゅうぜん)は、国民学校で教師をしていた。44年7月にサイパンが米軍に占領され沖縄への進攻が現実味を帯びると、日本政府は戦力にならない子どもや高齢者を中心に、沖縄から九州や台湾へ10万人を疎開させる計画を立て、教師だった曾祖父は保護者に疎開を呼びかける立場を担わされた。
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しかし、家族が離ればなれになることに抵抗を示されたり、日本にとって都合の良い情報ばかりが伝えられていた中で疎開の必要性を説明するのが難しかったりしたため、希望者は思ったように集まらなかった。一方で県職員や教師など、疎開業務に携わる人たちは模範として自分たちの子どもたちを送り出さなくてはならず、伊波家からは当時国民学校高等科1年生(現在の中学1年生)だった祖母と、初等科2年生(現在の小学2年生)だった妹(私にとっての大叔母)が疎開することになった。曾祖父も引率教員として後から九州に渡る予定だったため、祖母も安心して出発したという。
しかし、対馬丸の事件は学童疎開に大きな影響を与えた。日本軍は事件について厳しいかん口令を敷いたが、完全に隠しきることはできなかった。疎開希望者のキャンセルが相次ぎ、曾祖父の引率も取りやめになったという。
祖母の乗った暁空丸は8月21日、対馬丸のほか、同じく疎開船の「和浦丸」とともに出航。2隻の護衛艦も同行していたが、22日にすぐ近くを航行していた対馬丸が撃沈され、23日には魚雷を避けようとした和浦丸に衝突されけが人が出るなど、24日に長崎港にたどり着くまで危険にさらされ続けた。その後は熊本県日奈久(ひなぐ)村(現・八代市)の温泉旅館に学校単位で身を寄せ、空襲の激しくなった45年6月以降は同県百済来(くだらぎ)村(現・同市)に移り、地元民宅にバラバラに引き取られて生活した。
その百済来村での暮らしが、祖母にとってはつらい時期だったようだ。祖母が通っていた国民学校の元疎開児童・生徒らで作成した記録集を読むと、祖母は「いやな思いをした」「将来に何の希望も許されずただ農業の手伝いに明け暮れる日々が続いた」「他人の家での生活に比べると歯を食いしばっても頑張れた」と赤裸々に書いている。近くの別の家で暮らしていた大叔母によると、祖母は「朝から汗だくになりながら働いていた」といい、「実の子のようにかわいがってもらった」という大叔母とは対照的だった。当時の年齢や受け入れ先の家族の人柄にもよるのだろうが、戦争で多くの人が困窮していた時代に、肩身の狭い思いをしながら労働力として必死に生きていた祖母の姿が目に浮かぶ。
祖母は九州で父親と会えるのを「今日か今日かと待ちわびながら」さみしさに耐えていた。戦後には「お父さんやお母さんの事が思い浮かべられて、つい涙がぼろぼろ出てきます」と沖縄に宛てて手紙を書いている。しかし、その手紙を曾祖父が読むことはなかった。沖縄で防衛隊として召集された曾祖父は45年5月ごろ、日米の激しい戦闘があった首里(現・那覇市)で命を落としていた。祖母は父親の死を、46年10月に沖縄に帰って初めて知ったという。対馬丸の事件がなければ曾祖父は九州へ渡って祖母と再会し、戦後も生きていたのだろうか。
伊波家のほかの家族は生き残ったが、曾祖母1人で子ども5人を育てるのは大変な苦労があったという。記録集には曾祖母の言葉も残されており、「本当に苦しかった。それを何も知らない年端もいかない子どもたちにただ当たり散らして、叱ってばかりいた」と振り返る。大叔母によると、最年長の祖母には特に厳しかったという。戦闘が終わっても戦争の苦しみが終わらないことを、感じずにはいられない。
祖母は2019年に亡くなった。地上戦を生きのびた祖父は時折子ども時代の戦争体験を語ってくれたが、祖母からはついぞ戦争について話を聞いたことはなかった。暁空丸に乗っていたことを知ったのも、亡くなった後のつい1、2年前のことだ。ただ、祖母が嫁ぎ先である自宅の仏壇に曾祖父の写真を飾っていたのは、父親への思慕の強さゆえだったのだろう。
今ではその仏壇に、祖母と曾祖父の写真が一緒に飾られている。約束していた再会を、2人は果たせただろうか。【写真映像報道部兼那覇支局・喜屋武真之介】
<※8月23日のコラムはオピニオン編集部の鈴木英生記者が執筆します>