13>なぜただ、信仰によってのみ義とされるのでしょうか。<要約<ガラテヤ書3:2.5>.2024.11.3.<主日>大阪愛する教会。金好日牧師
なぜ律法によっては義とされず、ただ信仰のみで義とされるのでしょうか。それは、律法は無能(むのう)で救いに必要な力を与えられないのだが、信仰は救いに必要な力を与えられるからなのです。<ガラテヤ書3:2.5>あなた方に一つだけ確かめたい。あなた方が霊を受けたのは律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなた方に霊を授け、また、あなた方の間で奇跡を行われる方は、あなた方が律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなた方が福音を聞いて信じたからですか。この御言葉は、罪に打ち勝ち天の父なる神様の御言葉通りに歩ませる力が聖霊であるからなのです。
律法は私たちに聖霊を与えられないため、律法によっては義とされないのだが、信仰は信じる者たちに聖霊を賜物として与えられるのです。信仰は聖霊を受けられる手立てなのです。聖霊は死んだ霊を生き返らせ、新たな命を与えられ、新たな被造物(ひぞうぶつ)として生まれ変わらせ、罪に打ち勝たせ、御言葉に従わせ、神様と隣人(りんじん)を愛するようにさせる弁護者なのです。それで、ただ信仰によってのみ義とされるのです。この全ての真理を正しく理解し信じれば理論的な信仰ではなく、この世に打ち勝つ信仰を所有する事ができるのです。
1>なぜ信じても聖書通り力が現れないのか。私たちが信仰によって救われたのだが信仰は何なのか。具体的(ぐたいてき)に分かれば信仰によって私たちが変われるのです。私たちが真心(まごころ)でイエス様を王として救い主として受け入れ、御言葉通りに歩もうと努力するのだが失敗する時が多いのです。何が問題なのか。大勢(おおぜい)の人々が信仰とはイエス様を信じると罪が赦され天の父なる神様の子になる程度に考えるのです。しかし、信仰は罪の赦しのみではなく罪から自由にさせ新たな被造物にならせ、心を清くさせ、聖なる者にさせ、神様に従わせ、神様に喜ばれる人生を歩ませて、この世に打ち勝たせるのです。
この世に打ち勝つという言葉は神様の御心通りに歩む事を意味するのです。使徒パウロは福音を伝える時、素晴(すば)らしい言葉と知恵で福音を伝えず、聖霊の力によって福音を伝えたのだが、それは、信じる者たちに力を経験し力を信じさせるためなのです。大勢の人々が罪と戦いながら聖霊の助けを求めたのだが、失敗(しっぱい)しつまずく場合が多いのだが、その理由が何でしょうか。それは、天の父なる神様が罪から自由にさせ従える秘訣(ひけつ)を福音の中にすでに啓示されたのです。
ところが、それを十分に悟れず正しく信じないため信仰の力を経験できないのです。福音と信仰が何なのか正しく知り信じれば聖書通り信仰の力を経験する事ができるのです。ところが、そうなってないのは、信仰に何かが抜けているものがあるからなのです。聖書にはキリストが神秘であるように信仰にも神秘(しんぴ)なのです。その神秘を知らねばならないのです。使徒パウロは信仰によって義とされるという御言葉を確証(かくしょう)するためアブラハムを例えて説明されたのです。聖書で信仰に対して最も詳しく説明された箇所がローマ書4章なのだが、そこで信仰の性格を強調されたのです。
信仰は当然イエス様を信じる信仰なのです。ところが、イエス様を信じる事が正確に何なのか。アブラハムの信仰は義とされる事を得られる信仰なのです。アブラハムが信じたのは天の父なる神様の約束なのです。アブラハムは神様の約束を固く信じたので義と認められたのです。アブラハムの信仰は単に神様を信じる信仰ではなく、天の父なる神様の力を信じる信仰なのでした。ですから、私たちは福音が啓示されている神様の力を信じなければならないのです。
2>どのように信じる事が聖書的な信仰なのでしょうか。使徒パウロはアブラハムの信仰を紹介しながら信仰によって義とされたと紹介しているのです。当然イエス・キリストを信じる信仰なのです。では、イエス様を信じるという事は正確(せいかく)に何なのか。奇跡を体験する信仰のみではなく、義とされる事を得る信仰が何なのかを示してくれるのだが、それは神様の約束を信じる事なのです。アブラハムに二つの約束が与えられたのだが、
1>子孫に世界を受け継がせるという約束、即ち、天の国を受け継ぐという事と。
2>子孫が空の星のように増えて多くなるという約束なのです。この約束(やくそく)を固く信じたため天の父なる神様が義と認められたのです。単に神様を信じた事ではなく、神様の力を信じたのです。また、天の父なる神様の全能(ぜんのう)なる力を信じたのです。不可能な事を可能にさせると信じる事が真に信じる事なのです。また、神様が生きておられる真の神様であられると信じたのです。死んだ者を生き返らせ無から有(ゆう)を創造(そうぞう)される神様であると信じたのです。全能(ぜんのう)なる創造主であられる神様であると信じたのです。
死んだ者のような自分と妻の体を生かす力があると信じたのです。真の信仰は神様の存在(そんざい)に対する事ではなく、復活(ふっかつ)の力、創造の力に対する信仰なのです。真の信仰はイエス様を死者の中から蘇らせた方を信じる信仰なのです。それで、信仰は十字架の死だけではなく復活を信じなければならないのです。
첫댓글 信仰は 罪から自由にさせ新たな被造物にならせ、心を清くさせ、聖なる者になる事感謝しますアーメン