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毎日新聞2024/10/24 13:00(最終更新 10/29 10:53)有料記事2690文字
森のすぐ外にはマンションや住宅が建ち並び、その先には大阪市中心部の高層ビル群が見える=写真集「奇跡の森 EXPO’70」より
緑のグラデーションが美しい、もこもことした森の木々。人里離れた山の風景写真かと思いきや、被写体は都市のど真ん中、しかも人工の森だ。
通称「万博の森」。1970年大阪万博の会場跡地(大阪府吹田市)につくられた。4年にわたって森を撮影し、先月写真集「奇跡の森 EXPO’70」(ブレーンセンター)を刊行した写真家の畑祥雄さん(74)は「世界的にも珍しいこの森こそ、70年万博のレガシー(遺産)だ」と言い切る。そして「森のこれからの姿は、日本人の肖像になる」とも。
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2025年大阪・関西万博の開幕まで半年を切った今、半世紀前に先人が森に込めた思いをたどりたい。
50種以上も野鳥が生息
ページをめくるたびに、森が新たな顔をのぞかせる。まぶしい新緑に、赤や黄色の紅葉。季節を感じる森の遠景もあれば、野鳥や昆虫など森で命を育む小さな生きものにクローズアップしたものも。生き物たちの捕食の瞬間を捉えた1枚からは、美しさと同時に、自然ならではの厳しさが感じられる。
朝日を浴びて飛ぶヒヨドリ=写真集「奇跡の森 EXPO’70」より
21年から毎週火曜日を撮影日と決め、機材を担いで通った。万博の森が誇る「生物多様性」を表現するため、被写体は森に生きるあらゆるもの、と決めた。専門に細分化された写真の世界で、花や鳥などに特化しない「森」の写真集は意外に少ないという。
特に難しかったのは、約50~60種が生息するという野鳥の撮影。写真家人生で初めての挑戦だったが、森の豊かさを示す重要な存在として、根気強く撮影を重ねた。「美しい瞬間に出合い、また撮りたいと出かけていっても二度と同じ景色には巡り合えない」。100点以上の「一期一会」が、写真集には収められている。
再開発ではなく「森」選んだ理念
畑さんは京都府出身。美術やスポーツなど幅広い分野を手がけ、映像プロデューサーとしても知られる。
70年当時は大学生。万博には何度か足を運んだ程度だったが、80年代に入ってから、跡地にできた「万博記念公園」の広報写真を担当。数年前、公園近くに引っ越したことを機に再び通うようになり、園内の「自然文化園」に広がるうっそうとした森に魅了された。
万博の森は、都市の真ん中にあるとは思えないうっそうとした草木に覆われている=写真集「奇跡の森 EXPO’70」より
自然の美しさと同時に畑さんの心を打ったのは、再開発ではなく「森にする」という選択肢を選んだ跡地利用の理念だ。
「70年万博は『人類の進歩と調和』をうたいながら、会期中は結局、進歩一辺倒だった。跡地が再開発されていたら『調和』はどこにもないまま終わるところだったが、先人たちの決断のおかげで50年後の今、『調和』が見事に実現されている」
新たな万博を翌年に控えた今こそ、多くの人にそのメッセージを伝えたいと、写真集作りに着手した。
セントラルパークを念頭に
70年万博は、一帯に広がる丘陵地を切り開いて会場とした。雑木林や農地だった場所からは緑が失われ、閉幕後は土がむき出しの更地が残された。閉幕時点で跡地の利用法は未定。大阪府や地元産業界からは官公庁や流通施設を誘致するなど、新たな開発を求める声が上がっていた。
大阪市中心部から約15キロ。巨大なベッドタウン「千里ニュータウン」に隣接し、高速道路や鉄道も整備された地域は、魅力的な開発候補地だった。
しかし、閉幕の3カ月後、国の諮問機関・万国博覧会跡地利用懇談会は、「緑に包まれた文化公園」として一括利用すべきだと結論づけた。公害が多発し、高度成長期の負の側面が注目されていた頃。技術の進歩や開発一辺倒の風潮に対する疑念が社会で膨らみつつあった。
造園家の吉村元男さん=大阪市西区で2024年10月5日、山田夢留撮影
森づくりを担当したのは、跡地利用に携わった文化人類学者・梅棹忠夫の教え子で、弱冠33歳の造園家だった吉村元男さん(86)。多様な生物が生息する天然の森を人の手で再現し、その公園を市民に開放して、都市に住む人々の憩いの場とすることが使命だった。
念頭に置いたのは米ニューヨークのセントラルパーク。約100ヘクタールの土地に、それぞれジャングル、サバンナ、草原をイメージした、密生林、疎生林、散開林を計画し、255種、約60万本を植えた。周囲の騒音や排ガスを遮断した静かな森を実現するため、外周部はパビリオンのがれきの上に盛り土をしてかさ上げし、すり鉢状の設計にした。
梅棹からの指示は「30年で森をつくれ」。なぜ森なのか、なぜ急ぐのかを尋ねた吉村さんに梅棹は、建築物を造らせないためだ、と答えたという。自力で循環する「自立した森」には本来100年かかるため「無謀な依頼」だったというが、がれきを埋めた土地の水はけが良かったこともあり、木々は成長。野鳥や昆虫も多種確認されるようになり、00年には森をサルや鳥の目線から観察できる展望台や回廊も造られた。
「太陽の塔」と並び立つ価値
畑さんは写真集制作をきっかけに吉村さんと出会い、当時の話を詳しく聞く機会を得た。吉村さんが「いくつもの奇跡が重なった」と表現する過程を経て生まれた、世界的にも珍しい規模の人工の森。現在も自立への途上にあり、高木層が過密状態となって低木や草が育ちにくいなど、まだまだ人の手を必要としている。
「森をつくるには時間と手間とお金がかかる。これからの50年、この森が豊かになるか痩せ衰えるかは、日本人の自然や文化に対する考え方を映す肖像にもなると思う」と畑さんは言う。
国の独立行政法人改革の一環で14年に公園事業を継承した大阪府は、70年万博のシンボル「太陽の塔」の世界遺産登録を目指すと表明している。太陽の塔には、デザインした岡本太郎が進歩主義へのアンチテーゼを込めたのは有名な話。内部の「生命の樹」は18年に再公開され、今また注目を集める。
畑さんは「『生命の樹』が飛び出して現実になったのが万博の森とも言える。森は『太陽の塔』ほど知られていないが、その二つがそろって初めて価値がある」と訴える。
写真家の畑祥雄さん。ザ・サードギャラリー・アヤで出版記念写真展を開いている=大阪市西区で2024年10月5日、山田夢留撮影
今、畑さんが吉村さんとともに提案するのは、万博の森を25年万博のサテライト会場とすることだ。夢洲(ゆめしま)会場(大阪市此花区)には、森から1500本を移植して「静けさの森」が設置される計画。さらに、そこで森の存在を知った人たちにシャトルバスで本物の森を見に来てもらう仕組みができれば、「調和」のメッセージをより広く世界に届けられるのではないか。畑さんたちはそう考えている。
現在、大阪市西区の「ザ・サードギャラリー・アヤ」では、出版記念の写真展を開催している(11月2日まで)。畑さんは25年万博の会期中に写真展を巡回させることも計画中。吉村さんも今月、「奇跡の万博公園 いま、半世紀のレガシーを問う」(マルモ出版)を刊行する。【山田夢留】