|
毎日新聞2024/11/3 10:00(最終更新 11/3 10:00)有料記事1957文字
国産シーケンサーのプロトタイプを紹介する谷口正輝・大阪大教授=大阪大提供
遺伝子を解読する装置の「シーケンサー」。多くの発見をもたらし、個人に最適な治療を探るゲノム医療の時代も到来したが、日本はこれまで海外産に依存してきた。近年になって政府が「国産」の開発に力を入れ始めた背景には、経済安全保障上の問題がある。
4種類の塩基の配列を読み取る
大阪大の谷口正輝教授は10月1日、集まった報道陣に約20センチ四方の黒い箱を誇らしげに紹介した。「国産第1号」のシーケンサーのプロトタイプ(試作機)だ。2008年からシーケンサーの研究開発を独自に始めていた谷口教授。近年は政府の後押しもあり、約15年かかって完成にこぎ着けた。
Advertisement
生命の「設計図」とも呼ばれるDNA(デオキシリボ核酸)。病気の予防や治療に役立てるため、シーケンサーで解読することは今や医療で欠かせなくなっている。
DNAは、はしごがねじれた鎖のような二重らせん構造だ。はしごの横木に当たる部分は、アデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)という4種類の塩基から成る。この時、AはT、GはCと互いを補うように結合し、人の塩基対は約30億にもなる。
シーケンサーとは
このA、G、T、Cの並びがわずかに異なることで、それぞれの人の特徴が生まれている。そのため塩基の配列(シーケンス)を解読することは、その人の生物学的な特徴を解き明かすことになる。
解読装置のシーケンサーは、1970年代に英国の生化学者、フレデリック・サンガー博士が画期的な解読法を開発したことに始まる。博士の名を冠した「サンガー法」は、DNAの断片に蛍光を使って目印をつけ、その順番を読み取ることで、塩基配列を解読する。このサンガー法を自動で行う第1世代のシーケンサーは80年代に登場。00年代には高速かつ大量に塩基配列を解読する「次世代型」が登場し、医療応用に弾みをつけた。
難病の治療法や病気の診断、感染症の原因となるウイルスの分析など、さまざまなシーンで使われているが、特に近年増えているのが、がん細胞の増殖に関係する100以上の遺伝子を調べ、患者一人一人に合った薬や治療法を模索する「がん遺伝子パネル検査」だ。
19年に公的保険が適用されて以降、検査数は右肩上がりに上昇。厚生労働省によると、現在では年間1万2000件以上実施されている。今後もさらに増える見込みだ。
海外産に依存することによる問題
国費もゲノム情報も海外に流出
ところが世界のシーケンサー市場は、米国のバイオテクノロジー企業「イルミナ」や中国の新興企業が席巻。一部欧州や韓国のメーカーも食い込んでいるが、日本のメーカーは開発できていない。機器代や維持管理費、試薬代など、装置を動かすのに必要な費用は海外に流れてしまっている状態だ。
大阪大の谷口教授の試算では、国内の新規がん患者を100万人と仮定した場合、シーケンサーを使った検査費用は年間約1・2兆円にも上り、そのうち人件費などを除く大部分が、海外企業に流れることになるという。
国産シーケンサーの仕組み
国費の流出に加え、有事の際に遺伝子検査ができない恐れもある。ゲノム医療に詳しい東京大医科学研究所ヒトゲノム解析センターの井元清哉教授は「イルミナなどは試薬でも利益を得るビジネス戦略を取っており、海外にお金が出ていってしまっている状態だ。試薬や装置の供給が止まれば、検査ができなくなってしまい、経済安全保障の問題も生じる」と話す。さらに「究極の個人情報」と言える機微なゲノム情報は、創薬につながる宝の山。国外へ広く流出すれば、日本にとって大きな損失になる。
政府の後押しで進む「国産」の開発
こうした危うい状況から脱却するため政府は、22年から始めた研究開発構想「経済安全保障重要技術育成プログラム」の最初のテーマの一つとして、国産シーケンサーを選んだ。5年間にわたって、六つの研究チームに60億円を支援する。
その一つが谷口教授らのチームだ。四つの塩基はそれぞれ微妙に異なる電気抵抗を持っているので、電極と電極の間にDNAを通し、電気抵抗の違いを測定することで、塩基配列を判読していく仕組み。DNAだけでなく、たんぱく質を合成するなどさまざまな働きを持つRNA(リボ核酸)の塩基配列や、RNAをもとに作られたアミノ酸の配列もこの仕組みで解読できるという。
実用化までには少なくとも2年半かかる見込みだが、検査にかかるコストは現行の次世代シーケンサーに比べ10分の1程度に抑えることを目指す。谷口教授は「患者のRNAやペプチドの情報も、創薬の出発点になる宝だ。海外に情報をためることは、日本がお金を払って宝の山を海外に築いていることを意味する」と指摘。その上で「医療やAI(人工知能)ビジネス分野だけでなく、医科学や創薬をはじめとする生命科学を革新したい」と意気込みを語った。【菅沼舞】