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毎日新聞2024/8/28 06:00(最終更新 8/28 06:00)有料記事2186文字
阿波丸事件の犠牲者を追悼する慰霊塔。両脇には犠牲者の遺骨が納められている=奈良市の璉珹寺で2024年8月21日、鵜塚健撮影
若くして自身の死を予期することは難しい。ただ、かつて高い確率で死を予測していた人たちがいた。太平洋戦争中、軍に徴用された民間船舶の船員たちだ。
「私はいま、この大戦争の一分子として、船の上で働いている。誰も、死にたくないのは同じだ。殊に私は、可愛い三人の子供と、その母を残して死にたくはない」
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妻子4人にあてた手紙の主は、無線技士として民間船に乗り込んでいた新井蕃夫(しげお)さんだ。
阿波丸慰霊塔には、2000人以上の犠牲者名簿が納められたことが記されている=奈良市の璉珹寺で2024年8月21日、鵜塚健撮影
「開戦後一年近く、よくも今まで命が有ったと不思議に思える程である。(中略)我々は実に無力だ。敵に会えばただ彼等のなすがままに、海底に沈んで行かなければならない。(中略)兵士以上の胆力を以(もっ)て危険な海を航海し、地味に、無言に一片の骨も残さずに戦死するのだ」
戦時中、軍の指揮下に入れられた民間船は兵士や武器、物資を輸送する一方、何ら武装していない。敵国の軍艦や潜水艦から攻撃を受ければ、ほぼ死を意味する。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市中央区)によると、戦時中に沈んだ民間船は7240隻、犠牲者は約6万人に上る。多くは深海に沈み、遺骨は見つからない。ゆえに沈没海域が「海の墓標」と言われる。
妻慶子さんがまとめた手記によると、水産会社に勤めていた新井さんは1939年に海軍に徴用された。乗った船が沈没、座礁を繰り返し、死が迫る感覚があったのだろう。
阿波丸事件の犠牲者名簿には、当時植民地だった朝鮮半島や台湾の出身者の名前も多い=奈良市の璉珹寺で2024年8月21日、鵜塚健撮影
手紙の「予言」から約3年後、最後に乗り込んだのが貨客船「阿波丸」(1万1249トン)だ。戦争末期、米軍側の要請を受け、南洋などで収容された連合国軍捕虜に救援物資を届ける「救恤(きゅうじゅつ)船」だった。通常の輸送船と違い、人道上の観点から日米間の約束で攻撃の対象外とされていた。
45年2月中旬に日本をたち、台湾や香港、ベトナムで荷を降ろし、シンガポールに到着。役割を終えた阿波丸は3月28日、日本に向けて出航した。戦況が悪化する中、安全が保障された貴重な帰国手段として、現地に滞在する日本人が殺到したという。
しかし、想定外の悲劇が襲う。4月1日午後11時ごろ、台湾海峡を北上中、米潜水艦クイーンフィッシュが発射した魚雷4発が阿波丸に命中。救助された1人を除き、2000人以上が海に沈んだ。犠牲者数はタイタニック号事故(約1500人)や学童疎開船の対馬丸事件(約1500人)を大きく上回る。
阿波丸事件の犠牲者、新井蕃夫さんの長男蕃さん。母慶子さんが書いた手記を手に父への思いを語った=大阪府豊中市で2024年8月26日、鵜塚健撮影
沈没の半日前に阿波丸は船の位置を伝え、「船内で女の子が生まれた」と無線で報告していた。乗客たちは母国を目前にし、希望をふくらませていたのだろう。
戦争中、新井さんの妻子は東京から、慶子さんの郷里である鹿児島・種子島に疎開していた。悲報が届いたのは、終戦翌年の元旦だった。海軍からの文書に「台湾海峡にて戦死す」と書かれていた。34歳だった。大阪府豊中市に住む長男蕃(しげる)さん(87)は当時8歳。「母と姉と一緒に泣いたのを思い出す。船乗りのため不在のことが多かったが、家にいる時は本当に優しい父だった」と語る。
家族は戦後しばらくして大阪に移り、慶子さんが必死で子どもたちを支えた。子育てが一段落した65年、慶子さんは遺族捜しを始める。厚生省(当時)にある資料をもとに、全国の市町村役場に遺族の情報提供を呼びかけた。各地の遺族に片っ端から手紙を書いて2038人の名前を集めた。
戦時中の民間船の資料が多数展示されている「戦没した船と海員の資料館」=神戸市中央区で2024年8月20日、鵜塚健撮影
名簿作りと並行して力を入れたのが慰霊塔の建立だ。「海が見える場所に」との願いから、神戸で計画を進めたが失敗。代わりに用地提供を申し出たのが奈良市の璉珹寺(れんじょうじ)だった。
当時の下間松甫(しもつま・しょうほ)住職は長男宗春さんを阿波丸事件で亡くし、次男もフィリピンで戦死した。慶子さん、下間住職が奔走して資金を集め、慰霊塔が66年11月に完成した。以降、慶子さんが中心となり、毎年命日の4月1日には、慰霊塔前で「阿波丸遺族のつどい」を開いてきた。
写真や模型が多数展示されている「戦没した船と海員の資料館」。悲劇を繰り返さないとの強い思いが込められている=神戸市中央区で2024年8月20日、鵜塚健撮影
やがて奇跡が起きる。中国・福建省沖の海中から、阿波丸の乗員の遺骨が見つかったのだ。79年から81年にかけて3度にわたり、遺骨の引き渡しがあり、蕃さんと慶子さんも現地を訪れた。慶子さんは現地で中国政府に感謝を伝え、追悼の言葉を読んだ。「祖国の礎となられた皆様のおかげで今、日本は平和な国になりました。父、母、妻、子、兄弟姉妹の待つ故郷に、さあ、ご一緒に帰りましょう」。帰国後、遺骨は璉珹寺と東京・増上寺にそれぞれ納められた。
慶子さんらが作成した名簿は貴重なものとなった。この名簿をもとに同資料館のスタッフ、大井田孝さん(82)が後年、犠牲者をさらに追加した「阿波丸殉難者名簿」(2277人)を完成させた。名簿を見ると、船舶会社や石油会社の社員、軍人・軍属、外交官などさまざまな立場の人の名前が並び、「大阪毎日新聞記者ビルマ(現ミャンマー)特派員」もいた。当時、植民地だった朝鮮半島や台湾の出身者の名前も含まれていた。
米潜水艦の攻撃で沈没した貨客船「阿波丸」=「戦没した船と海員の資料館」提供
慶子さんは95年に亡くなり、その後は30年近く蕃さんが遺族の活動を引き継いでいる。来年4月で事件から80年。「阿波丸事件は世界最大規模の海での悲劇。いつまでも忘れてはいけない」と蕃さんは誓う。
慰霊塔がある璉珹寺は境内に美しいオオヤマレンゲが咲くことで知られる。花言葉は「変わらぬ愛」だという。【社会部大阪グループ・鵜塚健】
<※8月29日のコラムは運動部の倉沢仁志記者が執筆します>