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毎日新聞2024/11/19 07:00(最終更新 11/19 07:00)有料記事3021文字
アスリートの遺伝子研究(イメージ)
遺伝子からスポーツの適性も分かる時代になりつつある。そんな中、国立スポーツ科学センター(JISS)が、2017年に始めたアスリートの遺伝子と、競技成績やけがのリスクの関連を調べる研究を22年に停止していたことが明らかになった。選手の選別、差別につながるとの懸念の声を受けての措置だったが、実際に研究に関わっていた研究者は何を思うのか。研究はなぜ慎重に行われるべきなのか。それぞれの立場の研究者に聞いた。
以下のお二人に聞きました
福典之・順天堂大教授
竹村瑞穂・東洋大准教授
福典之・順天堂大教授
遺伝子は、体の中で必要なたんぱく質を作り出す情報だ。たんぱく質を作るだけでなく、不必要なものは作られないようにして、生理現象をつかさどっている。スポーツでは、持久力や瞬発力、けがのしやすさ、栄養素の取り込みやすさなどと関連が深い。遺伝子を構成するDNAの塩基配列が異なれば、これらの能力に差が出ると考えられてきた。
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福典之・順天堂大教授(スポーツ遺伝学)=千葉県印西市で2024年10月4日、渡辺諒撮影
DNA配列の違いは塩基置換(多型や変異)と呼ばれるが、人口の1%以上に塩基置換が存在している場合を「多型」と言う。髪の毛や目の色の違いを生む差だというとイメージしやすいだろう。一方、変異は1%以下に現れ、病気に関わることもある。
身体能力と遺伝子に関する最初の論文が出たのは英国で、1998年だ。この論文では、登山家の優れた持久力に関連する遺伝子や、反復的な筋トレの効率を上げる遺伝子が指摘された。これをきっかけに各国で研究が始まり、2007年には欧州の研究チームが2000組の双子を調べ、運動能力の66%は遺伝によって決まると明らかにした。17年には国際研究グループも組織されている。
研究の手法は大きく二つある。一つは候補となる遺伝子を選び、働きを探るものだ。例えば細胞のエネルギーを作り出すミトコンドリアという小器官を増やす遺伝子に着目すると、ミトコンドリアを作りやすい人は、持久力に加え、瞬発力も増すことが明らかになった。二つ目は全てのDNAを解析するもので、一般の人とアスリートの違いを明らかにしようとする研究もある。
およそ25年間の研究で、スポーツに影響する可能性がある遺伝子多型は、250程度明らかになってきた。例えば「αアクチニン3遺伝子」には、RR型、RX型、XX型の3種類がある。前の二つの型は速い短距離選手になれる可能性が高い。しかし、XX型だと、どんなにトレーニングを積んでも100メートル走で10秒4~5の壁を破れないことが知られ、国際大会への出場は難しくなる。こうした個性が早めに分かれば、根拠を持って自らの意思で適した競技を選べるようになるだろう。
遺伝子多型によって、選手の意向を無視して選別することがあってはならないし、けがのリスクが高いから契約をためらうことがあってはならない。海外では、使い方のルールが議論されている。しかし、研究自体を中止するという動きは聞いたことがない。遺伝子多型とパフォーマンスとの関係について詳細なメカニズムが分かれば、効果的なトレーニングや食事の仕方が明らかになると期待されているからだ。遺伝情報を選別に使うのではなく、選手強化の道具として使うというイメージだ。
このためには、科学的根拠の精度をもっと上げていくべきだし、選手とコーチ陣が、遺伝子とパフォーマンスやトレーニングとの関係について深く理解をしていく必要もあるだろう。日本で研究を止めれば、海外選手との差が開いてしまうことも懸念される。【聞き手・渡辺諒、写真も】
ふく・のりゆき
1973年生まれ。専門はスポーツ遺伝学、スポーツ生理・生化学。名古屋大大学院医学研究科修了。今回停止された研究プロジェクトに発足当初から参加していた。
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竹村瑞穂・東洋大准教授
日本スポーツ振興センターは今年5月、アスリートの遺伝子解析研究について倫理的な留意事項をまとめた声明を公表した。私自身策定に関わり、有意義な声明であったが、少し遅かったと思う。本来なら2017年に研究を始める際に、倫理的、法的、社会的課題(ELSI)を明らかにしておくべきだった。
竹村瑞穂・東洋大准教授=本人提供
純粋にアスリートのパフォーマンス向上に貢献したい、と始まった研究だと思うが、この研究における特有の倫理的問題への対応や枠組みが無いまま研究が進められてしまった。アスリートの遺伝子の収集・解析は遺伝子を操作する「遺伝子ドーピング」に抵触しないため、特有の倫理的問題性が認識されにくかったのではないか。
ではどういった懸念があるのか。遺伝子情報からはある一定の傾向が分かるだけで、精度が高くない場合もあるのに、運動能力と遺伝子検査の結果に因果関係があるように捉え、自身の可能性や才能の有無を疑いもせず判断してしまう危険性がある。それはスポーツの自由参画を阻害し、努力の否定といった副産物も生じかねない。このような懸念に対応するため、まずはスポーツ界できちんと、アスリートや保護者、指導者を対象に、遺伝リテラシー教育を推進すべきだ。
アスリート発掘の手段として遺伝情報を用いることも、極めて慎重になるべきだ。とりわけ未成年に対して行うと、自由意思に基づく判断が保障できない。日本では考えにくいが、例えば胎児や乳児の段階から遺伝情報でスポーツの種目を選定し、金メダリストを作り上げていくようなことも、国家政策としてあり得る。
かつての優生学、過去の国家主導の優生政策は、優れた形質を持つ人間を増やし、劣った形質を減らす社会改良政策だった。対して現代社会の、個人の欲望に基づくものは「新優生学」として区別される。たとえば、自分の子どもを、「能力を高くデザインする」ことなどはその一例だ。
新優生学が問題なのは、ある目的のために人間が「手段化」されるからだ。例えばスポーツでは100メートルを9・0秒で走れなければ意味が無いなど、その価値に合致する存在を手段的に生み出すことにつながりかねない。人間は一人一人が持つ固有性にこそ尊厳があるはずなのに、それを揺るがすような考え方となる。
また、遺伝情報の解析に伴って深刻な疾患が発見される場合もある。そうした2次的所見を本人に告知すべきか否かなども考えておかなければならない。これに対しては学際的な連携も重要で、今後は臨床遺伝専門医や認定遺伝カウンセラーによる遺伝カウンセリングの体制を整える必要もあるだろう。
倫理は科学技術の発展を阻むものではなく、健全な形で発展させて社会に還元するために不可欠だ。アスリートの遺伝子研究も、ELSIに関する体制が整えば、けがの予防など、研究の幅を広げていけるのではないか。【聞き手・池田知広】
たけむら・みづほ
1979年生まれ。筑波大大学院人間総合科学研究科満期退学後、博士号(体育科学)取得。専門はスポーツ倫理学など。早稲田大助教、日本福祉大准教授を経て23年から現職。
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LEGACY2020プロジェクト
東京オリンピックを契機にJISSが始めた研究「LEGACY2020プロジェクト」では、国内のトップアスリート2000人以上の協力を得て遺伝子の解析を実施していたが、内部からの懸念の声を受け、2022年に大部分の研究を一時停止した。24年5月にはJISSの上部組織が「パフォーマンスを向上させる目的ではヒトゲノム・遺伝子解析研究は行わない」とする声明を公表した。