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毎日新聞2024/11/19 06:00(最終更新 11/19 06:00)有料記事1889文字
細胞レベルで進む種の保存
日本で絶滅が危惧される野生動物は約1500種にも上る。この課題に対処するため、動物の細胞を凍結保存する動きが広がりつつある。細胞はどのように保管され、どのように活用されるのか。ミクロの世界で進む「種の保存」の取り組みを追った。
何十年、何百年先のために
豊橋総合動植物公園(愛知県)内の動物病院に2023年3月、死んだメスのアムールトラが運び込まれた。死因を詳しく調べようと、常駐する獣医師らが約3時間かけて解剖した。この時、トラの耳が数センチ切り取られた。細胞を凍結して保存するためだ。
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豊橋には園内に細胞を保管する施設がないため、冷凍便で提携の大学などへ送っている。国内では天王寺動物園(大阪市)のように園内に保管設備を有する場合もあれば、近隣の動物園が提携して細胞を集める、横浜市繁殖センターのような施設もある。
こうした取り組みは世界中で進んでおり、国際自然保護連合(IUCN)は22年、新たな専門家グループを設置し、どこに何の細胞が保存されているのかを一元化するネットワークの構築を進めている。豊橋総合動植物公園の伴和幸・動物研究員は「個体が死んでも細胞は生き続ける。保管しておくことで、何十年、何百年先になるかはわからないが、もしもの時に役立てられる可能性がある」と説明する。
伴さんの言う「もしも」とは、特定の種が絶滅の瀬戸際に立たされた時だ。動物園では希少種の繁殖を試みるが、オスとメスの相性や飼育環境に左右され、簡単にはいかない。その傍ら、野生下では生息地の減少などで絶滅危惧種が年々増加している。
細胞保存の方法
個体数が減ってくると、遺伝的に近い者同士で繁殖が繰り返される。遺伝的な多様性が失われると、感染症に弱くなったり、繁殖の成功率が低下したりする。そのため、種の存続が脅かされた時、現存する個体と異なる遺伝情報を持つ細胞が、絶滅を回避しうる「頼みの綱」となる。
米国ではクローンも誕生
米国では20年、絶滅危惧種・クロアシイタチの遺伝的な多様性を高めるため、30年以上前に凍結された細胞を使って、初めてクローンを作製。今年11月にはクローンから子ども2匹が誕生した。
国内で細胞の保存を担う施設の一つが、国立環境研究所(茨城県つくば市)だ。絶滅危惧種を中心とした細胞を保存する「タイムカプセル棟」には現在、約127種、5000個体もの細胞が、液体窒素で氷点下約150度に冷却されたタンクで凍結保存されている。その大半が、トラの耳のように採取した皮膚から培養された体細胞だ。
国環研の大沼学・生物多様性資源保全研究推進室長によると、生殖細胞に比べ、体細胞は手に入りやすく、冷凍状態で半永久的に生き続ける。ただ、事業を始めた00年代当初は「繁殖に直接結び付かないため、体細胞の利用価値を対外的に説明するのに苦労していた」と打ち明ける。
iPS細胞で活用広がる
そんな体細胞の価値を高めたのが、クローンや、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の技術発展だ。
テナガザルなど霊長類を中心としたiPS細胞の作製を手がける金沢大の今村公紀准教授(幹細胞生物学)によると、ヒトから近い種ほど、体細胞をさまざまな細胞になれる状態に戻す「初期化」に使う遺伝子やその導入方法が似ている。少なくとも哺乳類ではヒトと同じ要領でiPS細胞の作製が可能とみられる。
今村さんは「iPS細胞から希少種の生殖細胞を作ったり、薬を開発したりすることで種の保存に貢献できる」と幅広い活用方法を展望する。
一方、研究を進める上で気づいたのが、種の保存の重要性だった。
保存から活用へ
今村さんは、作製したiPS細胞から「ヒトらしさ」の解明も進める。ヒトのDNAはチンパンジーと約99%同じだと言われる。にもかかわらず、脳の大きさや手足の長さが違うのはなぜか。
今村さんらの研究チームは、両者の脳の大きさが異なる理由を探るため、iPS細胞を使って、脳の基となる神経細胞に分化する際の違いを観察した。ヒト特有のある遺伝子が脳の発達に関わっている可能性が判明し、24年2月に論文発表した。
しかし単にチンパンジーといっても、野生には4亜種が存在し、それぞれ遺伝子の特徴は大きく異なる。このため、特定のチンパンジーのみと比較しただけでは、見落としが生じる可能性がある。研究でも、遺伝的な多様性を加味することが重要だという。
種が途絶えて細胞も保存されていなければ、こうした比較研究や技術の応用もできなくなる。今村さんは「絶滅する前に今ある遺伝子を将来に残すことが、未解明の疑問を解き明かすことにつながる」と訴える。【高橋由衣】