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毎日新聞2024/9/5 東京朝刊有料記事2420文字
<スコープ>
激化する「宗教戦争」は、米国の未来を左右するかもしれない。
今夏、信仰の厚い「バイブルベルト(聖書地帯)」と呼ばれる南部諸州で「聖書教育」が相次いで導入され、騒ぎとなった。
ユダヤ人を救った王妃の物語からキリストの最後の晩さんの光景まで聖書を読み聞きする授業を小学校で実施する(テキサス州)。
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8月から公立学校の全教員が聖書を教えられるようにし、違反すれば教員免許の剥奪も辞さない(オクラホマ州)。
父母を敬い、殺人などを禁じた「モーセの十戒」を記した文書を年内に公立学校の全教室に掲示する(ルイジアナ州)。
憲法は信教の自由を認め、国教を禁じている。公立学校での組織的な宗教行為は禁じられており、聖書教育は違憲の疑いがある。
にもかかわらず、こうした動きが活発化しているのはなぜか。
仕掛けたのは、大統領選で共和党のトランプ前大統領を支持する宗教右派勢力だ。聖書を重視するキリスト教福音派を中核とする。
「神政国家にするのか」との批判にも耳を貸さない。オクラホマ州はトランプ氏の側近を起用した学習改革委員会を発足させた。
ルイジアナ州知事は7月のトランプ氏暗殺未遂事件後、容疑者が十戒を知っていれば「銃撃は起きなかった」と述べた。
狙いは、「キリスト教の復活」にある。米ピュー・リサーチ・センターによれば、キリスト教信者の割合は年々、減り続けている。
1970年代は9割を占めたが、2020年は64%に低下した。このペースで減り続けると、70年には35%まで落ち込むという。
「復活」の担い手として白羽の矢が立ったのがトランプ氏だった。16年の大統領選で「キリスト教の力を復活させる」と訴えていた。宗教右派の8割が投票し、勝利の原動力となった。
連邦最高裁判事に3人の保守派を指名し、リベラル派を圧倒する体制を確立したことは、後に公約達成の証しとなる。
象徴的なのは、人工妊娠中絶権について、過去の決定を覆し、憲法では保障せず、州の判断に委ねた22年の判決だろう。
20年大統領選に敗れ、退任後だったが、トランプ氏への宗教右派の評価は高まり、今回の大統領選での連携強化につながっている。
民主党も反撃に出た。ハリス副大統領陣営は宗教対策責任者にリベラル活動家のジェニファー・バトラー牧師を起用した。
バトラー師は「キリスト教は白人至上主義者に乗っ取られた」と発言したことがあり、トランプ陣営への敵意をむき出しにする。
「宗教ナショナリズム」を巡る論争は、米国社会の分断をさらに深め、保守派とリベラル派の対立を激化させている。
中絶反対派は、人間の生命は受胎で始まり、その子どもを「神は助ける」という聖書の教えを挙げて主張を正当化する。
妊娠初期から中絶を禁止している州は14ある。これに対し、女性の権利を重視し、規制を一切設けない州も6ある。
同性愛を禁じたと解釈される聖書の「ソドムとゴモラ」の物語を根拠に性的少数者(LGBTQなど)を冷遇する人々がいる。
8州が公立学校でLGBTQの議論を禁止する一方、7州は人権を擁護し、カリキュラムに明記して学びを広げようとしている。
銃規制ですら聖書論争の的だ。規制反対派はイエスが「剣を買え」と言った文節を持ち出し、規制擁護派は聖書の引用を批判する。
憲法の「武装の権利」の規定を踏まえ、どの州も銃所持を認めているが、携行の方法には大きな違いがある。
イデオロギー対立は米国の分裂を引き起こしている。国民の4人に1人が連邦からの「離脱」を支持しているという調査もある。
調査会社ユーガブによると、テキサス州では住民の31%、西部カリフォルニア州では29%に達するというから驚く。
州の再編に向けた動きは、より具体的だ。西部オレゴン州の東部13郡が州を離脱し、隣接のアイダホ州に編入する案を次々に議決した。州議会や連邦議会の承認が必要なためハードルは高いが、その数は全郡のほぼ3分の1に上る。
オレゴン州は中絶について一切規制がないが、アイダホ州は全米でも最も規制が厳しい。離脱を望む郡はいずれも保守的な地域だ。
11月の大統領選でハリス氏、トランプ氏のどちらが勝利したとしても、文化的な「内戦」が収束に向かうことはないだろう。
■ナビゲーター
忍び寄る内戦の危機
敗北した大統領選の不正を言い募り、数々の刑事事件で訴追され、政敵を中傷してはばからない。そんなトランプ前大統領が共和党内で絶大な人気を誇るのはなぜか。
手掛かりの一つが、大統領選副大統領候補のJ・D・バンス上院議員が記した回想録「ヒルビリー・エレジー」(関根光宏、山田文訳、光文社)だ。トランプ氏支持者らの「バイブル」とも言われる。
訳せば「田舎者の哀歌」となるこの著書でバンス氏は世論調査を引き合いに、中南米系や黒人よりも「白人労働者階層は悲観的」と指摘している。生まれ育った中西部はかつて工業で栄えたが、工場は閉鎖され、多くの薬物中毒者を生んだ。惨状を招いたのは政財界の「エリート層」だ、と軽蔑の対象にしたという。
共和党内にもトランプ氏を嫌う人は多い。だが、白人労働者が栄えた「古き良きアメリカ」の復活を願う共和党にとって、トランプ氏が掲げる「米国を再び偉大に」が心に響いていることも確かだろう。
ただし、単なる懐古主義だけで求心力が高まっているわけではない。「偉大な米国」の背景に透けて見える「白人ナショナリズム」が原動力になっている。
世界各地の暴力政治を研究している米政治学者バーバラ・ウォルター氏は著書「アメリカは内戦に向かうのか」(井坂康志訳、東洋経済新報社)で、歴史的に内戦が発生する背景には民族主義があり、トランプ氏が「民族主義仕掛け人」として現れたと指摘する。米国は民主主義と専制主義のはざまの「アノクラシー」の状態にあり、「内戦への壁は薄い」と警鐘を鳴らしている。