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毎日新聞2024/9/8 東京朝刊有料記事1689文字
=内藤絵美撮影
「群れ」と「集団」は違う。そう教わったのは、2015年の夏、教育者の菊池省三さんからだった。以下、当時の対談記録(新潮文庫「完本・しなやかな日本列島のつくりかた」所収)から抄録する。
菊池 「群れ」と「集団」という対語は、故・阿部謹也先生の「『世間』とは何か」から着想を得ました。個人が自分らしさを発揮して自立しているグループが「集団」。個人の考えよりもその場になんとなく流れる空気、特にマイナスの空気が勝るのが「群れ」と定義しています。子どもたちには「群れるな、集団になれ」とよく話しています。
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藻谷 ご著書の「学級崩壊立て直し請負人」(新潮社)には、「休み時間に自分がトイレに行きたくなくても、友達が行くから一緒に行くのが『群れ』の特徴」とありましたね。
菊池 世間の空気で何となく行動してしまう。多くのいじめも「群れ」から始まります。だから、私はよく子どもたちに「ひとりが美しい」と言います。自分で考えて自分で行動できることが美しいと。柳田國男は「よき選挙民」を作ることが大事だと言っていました。それは「自立して集団の意思決定に加われる人」を育てなさいということです。
藻谷 確かによき選挙民も大事ですが、今はよき被選挙民の方も育てないと(笑)。国会こそ、「集団」ではなく「群れ」になっていますから。
その後9年間が経過したが、子どもたちはともかく国会議員に関しては、「自立して集団の意思決定に加われる人」は、なお少数派のようだ。石破茂氏に向けられる批判が典型だが、「一緒に群れないのは嫌なヤツ」という感情論が、政策論を置き去りにしてまかり通るのが、政権党の情けない現状である。
「群れ」の中に身を置く政治家と政治マスコミは、気付いていないのかもしれない。組織目的(=政策)不在の権力ごっこ(=政局)への忌避感が、群れの外で高まっていることに。企業や諸組織で「目標管理」が普及したのに伴い、組織目的に照らして合理性なき行動には、仮にリーダーの行為であっても正すべきだとの発想が、群れの外では浸透しつつあることに。
目的合理性に立ち返ることで強化された典型が、スポーツ界だろう。今夏のパリ・オリンピックの金メダル数は20。バブル前後のソウル、バルセロナ、アトランタでは3~4だったので、目覚ましい向上だ。ある識者は筆者に「パワハラ的な指導が減り、勝つための合理的な練習が普及してきたからでしょう」と語った。
対照的に、「群れ」そのものの体質をさらけ出したのが、ここ3年間の兵庫県庁を牛耳った者たちだった。共感性の欠如や他責への終始など、知事個人の常軌を逸した性格はもちろん問題だ。だが、ボスが「指導」と称してマウンティングするのに、黙って耐える組織文化も古すぎる。
国会議員の政治資金問題も、「群れ」の論理と目的合理性の対立と考えるとわかりやすい。「政治にはお金がかかる」と聞かされるほど、「そのお金に見合った成果は出ているのか」と問い返したくなる人は増えているはずだ。使途の領収書も不要では、そこには目的合理性のかけらもない。
これらの問題に対し、「群れ」るだけで目的合理的に対処できない政党は、次の総選挙で議席を減らすだろう。自党の利害得失すら計算できないようで、どうして国政を改善できるか。
他方で、兵庫県知事を追及している側も、これでは「群れ」そのものだなと、忸怩(じくじ)たる思いになる点がある。
公益通報がされてから何カ月もあったのに何もせず、死者が出てから「知事がそのままで許されるだろうか」という声を上げている人たちは、要するに「群れ」の中のネガティブな空気に従っているだけではないのか。被害者側が自死しなかったらどうしたのか。
ハラスメントへの対処の目的は、人権が守られ、被害者の幸せが戻ることだ。被害者側がさらなる自己犠牲を強いられ、それからようやく「けんか両成敗」的な感覚で加害者側への対処が始まるのは本末転倒だ。
組織の幹部も、報道や司法の関係者も、この機会に自身の中の「群れ」の論理を再検証してほしい。=毎週日曜日に掲載