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最近は新型コロナウイルス(以下「コロナ」)が話題に上がることは激減し、重症化リスクのない人たちの中には「単なる風邪」とみなす人もいます。しかし、死亡率は大きく減少したもののいわゆる後遺症に悩む人たちは少なくありません。後遺症には生活に支障が出るほど重症なものがある一方で、「軽症だけれども長期間続いて、つらいもの」もあり、その代表のひとつが「味覚・嗅覚障害」です。味覚・嗅覚障害の治療には難渋することが多いのですが、「香りの訓練」が奏功することがあります。また、「香りの訓練」は認知機能を改善することが指摘されています。そこで今回は「香り」による治療・予防について、当院での経験も紹介しながらまとめてみたいと思います。
確立した治療法がない嗅覚の後遺症
まずはコロナの話をしましょう。コロナによる味覚・嗅覚障害にはさまざまなパターンがあり、発熱やせきなどの感冒症状の前に出る人もいれば、感冒症状が軽減してから起こる人もいます。たいていは2週間から1カ月くらいの間に消失しますが、長引く場合は半年以上、あるいは1年以上に及ぶ人もいます。日常生活は可能なのですが、味覚障害は生活の質を大きく損ねます。食事の楽しみがなくなり、家族や友達と共にする食事が苦痛になった、という人もいます。嗅覚障害について患者さんが「最も困る」と口をそろえるのは「腐敗臭が分からない」で、冷蔵庫の中の整理に苦労する人が少なくありません。
過去5年間、当院ではコロナによる味覚・嗅覚障害にさまざまな治療を試みてきました。感染してから日が浅ければステロイド点鼻薬が有効な場合がありますが効かない例もあり、症状が長引いている場合はまず無効です。一部には亜鉛、あるいはビタミンDが有効という話もありますが、当院での経験でいえばさほど効果はありません。Bスポット療法(EATとも呼ばれます)という鼻咽頭(びいんとう)を塩化亜鉛でこする治療を受けに行った人もいますが、効果があった人はごくわずかです。漢方薬もさまざま試しましたが有効だった事例はほとんどありません。
結局、コロナの味覚・嗅覚障害には「有効な治療法がある」とは言えないのですが、「香りの訓練」が奏功する場合があり、当院では3年ほど前から少しずつ説明しています。そして、少しずつ手ごたえが感じられるようになり、最近はコロナに限らず味覚・嗅覚障害があるという患者さんほぼ全員に推奨しています。
香りの訓練をしてみると……
「香りの訓練」を最も簡単に実行するには専用のトレーニングツールを購入するのがいいでしょう。当院でよく勧めているのは4本のスティックのセットで、それぞれにユーカリ、バラ、レモン、クローブの香りがついています。「訓練」はこれら4本のスティックを順番に左右の鼻腔(びくう)に入れて吸い込むだけです。
いいかげんなものを勧めるわけにはいきませんから私自身も実際に購入して試してみました。印象としてはタイ人が使っている「ヤードム」にそっくりです(「ヤー」は薬、「ドム」はにおいをかぐという意味)。タイの薬局やコンビニで購入できるヤードムは鼻に突っ込んで吸いこみユーカリの香りを楽しむスティックです。タイの暑い気候で使うと、それだけでスッとして爽快感が味わえますから私はタイに滞在するときにはたいてい携帯しています。そして、「香りの訓練」に使うユーカリの香りがするスティックはヤードムにそっくりです。
この訓練を実施した患者さんに話を聞いてみると、最初はすべて(もしくは1~3種)の匂いがまったく分からなかったけれど次第に認識できるようになってきたと言います。4種の香りのなかで最も強いのがユーカリで、4種の順番は最後をユーカリにするといいという患者さんが多いようです。
実際には嗅覚障害がこの訓練で治ったのか、あるいは自然に治ったのか区別がつかない事例も多いのですが、患者さんの満足度はそれなりに高いようです。なお、味覚障害のみで嗅覚障害がないという人もこのトレーニングで味覚が改善していく人がいます(やはり自然治癒した可能性もありますが)。
記憶力も改善
さて、治療には「エビデンス」が必要であることを我々医療者はよく口にします。残念ながら「香りの訓練」がコロナによる味覚・嗅覚障害に効くとするエビデンスは、現時点では見当たりません。
しかしながら、香りが「記憶力を改善させる」ことを示した研究はあります。
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医学誌「Frontiers in Neuroscience」に2023年7月に掲載された論文「香りのディフューザーを使用した夜間の嗅覚トレーニングは高齢者の記憶力を改善し鉤状束(こうじょうそく)を変化させる(Overnight olfactory enrichment using an odorant diffuser improves memory and modifies the uncinate fasciculus in older adults)」を紹介しましょう。
「鉤状束」は脳の前頭葉と側頭葉をつなぐ部位で、エピソード記憶、言語、社会的感情処理などの機能を担い、加齢やアルツハイマー病で機能が低下すると考えられています。
研究の対象者は認知機能障害のない60~85歳の男女43人です。睡眠時にディフューザーを使ってエッセンシャルオイルの香りで嗅覚刺激を受けるグループと、ごくわずかの香りにさらされるグループに分かれ、嗅覚刺激のグループは、7種類のエッセンシャルオイル(バラ、オレンジ、ユーカリ、レモン、ペパーミント、ローズマリー、ラベンダー)のうち、毎晩1種類の香りに2時間さらされました。対照グループは、同じ条件でごくわずかな香りにさらされました。
調査開始時と6カ月後に、神経心理学的評価と機能的MRIの評価を行いました。その結果、嗅覚刺激を受けたグループの認知機能のスコアは、対照グループと比べてなんと226%も改善していたのです。なお、知能検査は両グループで差異は認められませんでした。
画像検査(機能的MRI)でも、嗅覚刺激を受けたグループは対照グループと比較して、左鉤状束の平均拡散能(mean diffusivity)が有意に増加していました。
さらに興味深いことに、調査終了後の睡眠時間を比較すると、対照グループは3分間減少していたのに対し、嗅覚刺激を受けたグループでは22分間延長していました。
母数が少ないのがちょっと残念ですが、ここまではっきりと差がついたことは注目に値します。そして、エッセンシャルオイルの香りを夜間にかぐという”治療”は安全で、また安く実行できます。
嗅覚低下はリスク
「香りの訓練」が有用であることを示した研究は他にもあります。これまでに公表された香りに関する18の論文を系統的に解析(systematic review)した論文は、「嗅覚トレーニングは全般的認知機能、特に言語流暢(りゅうちょう)性と言語学習/記憶の改善に有効」、さらに「これらのプラス効果は嗅覚が低下した患者のみならず、正常嗅覚者にも有効」と結論付けています。
嗅覚トレーニングが高齢者のうつ状態を改善させたことを示した研究もあります。
このように、香りの訓練が認知機能を改善させるか否かが繰り返し研究されているのは、「嗅覚低下は認知症、特にアルツハイマー病のリスクとなる」ことを示した研究があるからです。また、精神疾患に罹患(りかん)すると嗅覚が低下することを示した研究もあります。
こうした研究結果は、私自身の臨床経験とも合致します。例えば、「そういえば10年ほど前からにおいが分かりにくくなった」と訴える認知症の患者さんは少なくありません。また、うつ病を患った患者さんは「ご飯がおいしくないだけでなく、においも味も感じられない」と話すことがあります。
精神疾患や認知症は誰にでも起こり得ます。ならば、現在は無症状であったとしても、誰もが「香りの訓練」に取り組むべきだとは言えないでしょうか。「香りの訓練」は(ほぼ)副作用がなく比較的安価に実施できます。香りにはリラックス効果や睡眠促進効果もあるとされていますから積極的に生活に取り入れてみてはどうでしょうか。