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毎日新聞2024/9/22 東京朝刊有料記事1735文字
=北山夏帆撮影
葛飾北斎の富嶽三十六景という版画のシリーズは大変有名だ。さまざまな場所から見える富士山の姿を、周辺の風物と合わせて描く。「神奈川沖浪裏」など有名なものは誰もが知っているだろう。1831年から数年にわたって作製されたが、あまりに人気が高かったので「三十六景」の終了後もさらに10点が追加されたそうだ。
私は北斎というよりもジグソーパズルが好きだからなのだが、この富嶽三十六景のシリーズすべてのジグソーを完成させた。ここまでやると、北斎という人が風景をどのように見ていたのかが、おぼろげながらわかるようになる。私が思うに、北斎は自分が見ている一つの視点から描いているのではなく、同時に複数の視点を持っていたようだ。
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心理学の実験で、参加者にいくつかのものを描いた簡単な絵を見てもらい、その人が何を見ているのか、視線検出で追いかけた研究があった。欧米人は、何か特定のものを注視することが多かったのに対し、日本人は、全体を均等に見る傾向が強かった。この研究結果は、日本人は個別性よりも全体性に着目する、というように解釈されていたが、北斎の話と合わせると、個別か全体かというより、日本人は複数の視点が共存するということを大前提にしているのではないか。
そして、川端康成の「雪国」である。この作品の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章の主語は誰なのか? 「私」が見たことなのか、一般的観察を第三者的に描写したものなのか? これは、何十年も前に英国のケンブリッジ大学で過ごしたとき、日本学の先生たちと議論したことなのだが、結論は「この文章に主語はない」ということだった。つまり、日本では誰の視点ということを明らかにせず、かと言って第三者的な一般化でもなく、ある事柄を表現することができる、そういう思考をすることができるのである。
ここで取り上げた事柄に共通しているのは、「私」という主体をはっきりさせないこと、視点はいくつでもあり得るということではないか。そして、そのような作品が受け入れられるということは、受け入れる日本人がみな、そのことを暗黙のうちに了解しているということではないか。
最近、歌舞伎や文楽、能などの伝統芸能を鑑賞する機会が多い。そして日本文化の特徴というのはいったい何なのだろうと、いつも疑問に思い続けている。その中で一つ気付いたのは、日本文化はそれを伝えるときに、何がどうだとはっきり言語化しないことだ。
小説も歌舞伎などのせりふも言語であるので、言語を使わないのではない。言語をどう使うのか、誰の視点で何を伝えたいのか、ということが欧米の文化とは異なるのではないか、と思うのである。
いろいろな芸の道では、師の後ろ姿を見て学ぶ、ということになっており、一流になるにはその道の大家に師事しなければならない。最初は、廊下の雑巾掛けからなど、一見よくわからない修業というものもある。要は、何が重要なのかを言語化して伝えることはしない。それは、毎日の暮らしの中で、習う側が体得していくことなのである。
自他の境界があいまいである、主語を特定せずに話が通じる、大事なことは何かをはっきり言語化しない。それでも社会が成り立っているということは、日本人の集団が、かなり均一な性質でできていることを示しているのだろうか。
いや、本当に均一であるかどうかはわからない。個人はそれぞれ違うのだから、均一であるわけはないだろう。それでもこんな雰囲気を共有し、お互いにうなずきあうことで集団をまとめる、ということに暗黙の合意がある。これが「和をもって貴しとなす」という文化なのではないか。
だから、「あの芝居は良かったね」と言ってうなずきあうとき、「どこが良かったのか、それはなぜか?」などと聞くのは、議論をふっかけて場を乱すことなので、よくないのだ。
昨今、インバウンド対応など日本文化を「売り」にしようとする動きが多い。しかし、文化とは、ある集団が独特の環境の中で長い歴史を経て育んできたものだ。普遍的に良いものなどない。単なるエキゾチシズムではなく、何がどう貴重なのか、売るためには考えねばと思う次第である。=毎週日曜日に掲載