음원소스 : 사유리누야 사랑한데이~
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韓国には地域差別がある。全羅道出身者は狡賢いとされるそれである。作曲家の朴椿石は木浦公演に際して湖南線に乗りながらある疑問を抱いていた。「別れの釜山停車場」など京釜線を舞台にした歌は数多くあるのに、不思議と全羅道へ向かう湖南線を歌った歌がない。1955年(昭和30年)、朴椿石は作詞家の孫露源の協力を得て「雨降る湖南線(ピネリヌンホナムソン)」を発表する。
涙でお別れの歌 歌えばいいのでしょうか
振り向いて血の涙 流せばいいのでしょうか
愛とはこんなに悲しいものなのでしょうか
あなたと別れた雨降る湖南線
しかし発売当初からいきなりヒットした訳ではない。「雨降る湖南線」が韓国全土に爆発的に知れ渡り社会現象となったのは1956年(昭和31年)5/5早朝、野党民主党の大統領候補だった申翼煕(シン・イクヒ)がソウルから南に125マイルの全羅北道にある裡里で遊説で滞在中に急死してからである。申翼煕は当初は注目度も低かったものの、5/3のソウルでの演説会で20万人の聴衆を集めるなど人気を集め、その勢力は李承晩大統領の地盤であった農村部をも侵食する勢いを見せていた。李承晩サイドが狼狽したのはいうまでもない。現職大統領の危機が伝えられ、選挙戦が過熱する中での申翼煕の突然の死であった。死因は報道によって一定していないが、心臓麻痺であるという説が有力視されている。湖南線咸悦駅近くの列車の中で発作を起こしたという事から、申翼煕の葬儀では集まった人々の「雨降る湖南線」の大合唱となった。特に全羅道では徴兵で入営する若者が多く乗る論山行き列車の出発に際してもホームで「雨降る湖南線」の合唱となり、全羅道、ソウルなどのあちこちで「雨降る湖南線」が歌われた。
「雨降る湖南線」は悲恋のメロドラマのような歌なのだが、やがてこの社会現象とも呼べる申翼煕の急死と結びつけたヒットは、「雨降る湖南線」の本当の作詞者は申翼煕未亡人、というまことしやかにデマまで飛んで、すわ反政府暴動の予兆かと李承晩サイドを緊張させるのに十分だった。「雨降る湖南線」の歌手である孫仁鎬(ソン・インホ)、作曲の朴椿石=写真右、作詞の孫露源ともども警察に呼び出しを受け、取調べられた。孫露源は係官に殴られるなどされたが、朴椿石が「雨降る湖南線」は1955年(昭和30年)発売で申翼煕候補とは何の関係もない事を証明してようやく一同、解放されたという。なお申翼煕は全羅道で高い支持を集めていたが、京畿道の広州出身である。この時の大統領選では、主要26都市ではすでに死去していた申翼煕に61万票が集まったといわれる。野党の曺奉岩も61万票、李承晩には86万票というから驚異的な話である。
「雨降る湖南線」の湖南線は木浦とソウルを結ぶ鉄道路線である。韓国の道路事情は1980年代の高速道路の整備によってようやく改善され、バスなどの利用が盛んになったが、それ以前の1970年代までは鉄道が主な交通手段であり、ソウルへの出稼ぎ者などは帰郷には鉄道を使った。1970年代は韓国の地方では車を持つ人はほとんどなく、成功者はタクシーで帰郷して子供が珍しがって集まるような光景が見られたという。1980年代になると成功者はマイカーを所持してそれで帰郷するようになり、農村部では「誰それの息子はソウルで成功してマイカーで帰ってきた」と噂されるような按配だった。一般では村ごとに帰郷バスを借りて、いっぱいの土産や荷物と共に安上がりで集団で帰るのが普通だった。
地域差別のせいかどうかは不明だが湖南(全羅道)方面の道路事情は非常に悪く、唯一の湖南方面への高速道路だった湖南高速道路は1970年代は片道1車線という劣悪さ。その後、中央分離帯のない往復2車線になったものの、とても車で帰るのは不可能に近い状態だった。高速道を使った帰郷はバスにずっと乗りっぱなしで24時間というのもザラであった。1986年(昭和61年)9月にようやく論山-光州間の122.2キロが、幅23.4メートルに拡張されたのを皮切りに、潭陽、順天と工事が進んで1996年(平成8年)12月にようやく完成、全路線が往復4車線となった。
正月とお盆にあたる秋夕の節日には、1970年代にはソウルの人口の1/3は占めていたという湖南人(全羅道出身者)が一斉帰郷する。ソウル駅前広場には臨時の野外切符売場が置かれ、鈍行列車の立席を求めて長蛇の列、そこにはかっぱらい、スリ、バタヤや売り子なども群れ集まった。旅行用の大きなカバンを持った帰郷者は富裕な部類と見なされた。切符を買えない人もソウル駅、永登浦駅、水原駅から臨時列車に乗ろうと押しかける。それでも切符が手に入らなかった人は線路が100は並ぶ京釜線、湖南線、長項線などのあらゆる列車が点検に入るソウル市恩平区水色洞自由路の鉄道車庫へと忍び込み、出発前の空の列車に「光州」「順天」「木浦」という表示板頼りに乗り込み、トイレや貨物車にじっと隠れて発車を待つ。そして列車がソウル駅で切符を買った乗客を乗せ始めると何食わぬ顔で客車へ動く。日本の終戦直後の買出しのようなラッシュは始発のソウル駅から始まり、帰郷者は皆、握り飯などを用意、動けないすし詰めの車内にはスリも出没、網棚の上に寝る人もいた。ソウル駅のプラットホームでは列車への乗り込みをめぐって乱闘もしばしば起こった。京釜線以外は単線ばかりで、最低でも10時間はすし詰めの中を耐えなければならなく、足はしびれるわで大変だった。さらに単線なので鈍行列車は統一号、無窮花号、セマウル号などの特急列車、貨物車にまで先を越され、その度に待避線で待たなければならなかった。
薄紫の秋桜(コスモス) 涙に濡れるプラットホーム
手を握り涙尽きせぬ愛しい貴女
陸橋を過ぎゆく時に むせぶか汽笛の声
幸あれ さらば 去りゆく三浪津(サンランジ)
駆けつける子供たち バラックの陽だまり
遊んでいたのだろう 幼い手を振ってくれたよ
まぶたにこみ上げるもの 胸うずくばかり
手ぬぐい濡らして泣いた大邱停車場
電柱が一つ一つ過ぎ去ってゆく時
故郷との別れ 親との別れ 悲しみはとめどなく
灯り薄暗い三等車 息吹きかけたガラス窓に
故郷の名前を書いてみる 別れ悲しい大田停車場
南仁樹歌った「泣かせる京釜線」である。京釜線は釜山とソウルを結ぶ鉄道路線で、この歌では釜山からソウルへと向かう鈍行列車が描かれている。1950年代の話なので牽引するのは無論、蒸気機関車。故郷と愛しい人々と別れ、わびしくほの暗い三等車に座る主人公は、スラムの子供たちの手を振るさまにさえ感傷を覚え、息を吹きかけた車窓に故郷の懐かしい人々の名前を一人一人記していく。このシーンは尹東柱の「星を数える夜」という詩篇を連想させるという。
季節の過ぎ行く空には
秋がいっぱいに満ちている
私は何の気がねも心配事もなく
まるで秋の星を独り占めしているようだ
胸の中にひとつふたつとその星を刻むけれど
間もなく夜明けがやって来るから
明日の夜の分にとっておこう
まだ私の青春は終わりではないのだから
星ひとつに思い出と
星ひとつに愛と
星ひとつに淋しさと
星ひとつに憧れと
星ひとつに詩と
星ひとつにお母さん、お母さん
お母さん、私は星ひとつひとつに美しい言葉を
一言ずつ呼んでみます
小学校の頃、机を一緒に並べた幼友達の名前と…
韓国初の鉄道は1899年(明治32年)9/18に開通、京仁線がそれで、済物浦(仁川)-鷺梁津間、元々はアメリカによって敷設が予定されていたが、日本人経営の会社に敷設権が譲渡され、いわば日系企業の京仁鉄道によって敷設された。その後の日韓併合で鉄道建設は急速に進み、湖南線はじめ、韓国のほとんどの鉄道路線は日本によって敷設された。日本の敗戦時には6362キロにも及んでいたという。しかし朝鮮戦争で多くの路線が寸断される。1960年代からは朴正煕大統領の経済開発計画などで鉄道もSLからディーゼルなどになり、1970年代からは高速道路の建設が進んで鉄道はそれまでの輸送の最重要手段の座が揺らぐ事になる。1974年(昭和49年)には首都圏鉄道が完成し、1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)には中央線、太白線の電車化によって韓国の鉄道近代化はほぼ達成された。日本の戦前の燕号にあたるのが韓国ではセマウル号で、これは1969年(昭和44年)2/10からソウル-釜山間を走った観光号が、1974年(昭和49年)2月に当時、行われていたセマウル運動から、セマウル号としたもの。セマウル運動とは農村復興運動で、アジアでも最貧国の地位にあった韓国の先進国入りを目指した朴正煕大統領が提唱した地域経済をメインとした所得倍増計画である。
자료출처 : 쇼와 히스토리
첫댓글 고맙습니다.