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毎日新聞2024/10/2 東京夕刊有料記事886文字
元首相、村山富市さんは戦中の大学時代、東京・本郷の学生寮「至軒寮」に出入りした。寮長は穂積五一(1902~1981年)という人だった。
穂積は東京帝大で国粋主義の憲法学者、上杉慎吉(1878~1929年)の弟子になった。国家主義団体「七生社」で活動し、同会が運営した至軒寮を率いた。
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……と書くと、「右翼」という言葉が思い浮かぶが、そんな単純な人ではない。
戦中は大日本帝国が吹聴した「アジア解放」を信じるがゆえ、自ら台湾や朝鮮、満州を解放しない祖国に幻滅し、それらの独立運動家を助けて投獄された。
戦後はアジアの留学生を迎える「アジア文化会館」を建て、終生、友好の井戸を掘り続けた。その穂積の遺稿集「内観録」(非売品)が手元にある。評論家の佐高信さんにいただいた。500ページ超の大著にこんな一節があった。
<(日本人は)明治以来、アジア人を下に見て『利己的なひとりよがり』を通してきた。アジア人の日本人に対する『嫌悪』と『不信』は『反抗』に変わり(中略)「そのうちに、アジアに出ている日本人は殺されますよ」と、アジアの友人は、さりげなく私に告げている>
東南アジアで「反日暴動」が燃えさかっていた1974年の記述である。戦中は武力で蹂躙(じゅうりん)し、戦後もアジアで居丈高に振る舞い続ける日本人への警鐘だった。
それから50年。中国・深圳で、日本人学校に通う10歳の男児が殺害された。
中国のネット空間には、日本への憎悪をあおるデマ情報は少なくないという。一方の日本でも、ネットにも書店にも「嫌中」をあおる情報があふれている。
今回の事件の詳細は不明だ。74年とは時代も、おそらく背景も理由も違う。だが、かたちとして穂積の予感は当たってしまった。
村山さんは立場や民族で人を分け隔てない穂積に「感化された」という(2012年11月15日付本紙大分版)。戦後50年に出された「村山談話」は、穂積の信念が通底するように思う。
事件の痛ましさは筆にも口にも及びがたい。それでもなお、友好の井戸は掘り続けなければならない。憎悪は、他人も自分も傷つける。(オピニオン編集部)