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毎年秋から冬に猛威を振るうノロウイルスについて本連載では2017年の「医師がノロウイルスの検査を勧めない理由「今日から使えるノロウイルス対処法」で取り上げました。それから8年が経過した今も、まるで冬の風物詩のように毎年必ず流行します。そんなノロウイルスに待望のワクチンが登場しそうだと騒がれたのが昨年(24年)の夏で、実現化までもう一歩と期待されていました。ところが最近、最終の臨床試験が一時中断されたという情報が入ってきました。今回はそんなノロウイルスの特徴を改めて確認し、ワクチン開発が困難である理由やワクチンがない現状で何をすべきかについてまとめてみたいと思います。
世界では年間約20万人が死亡
まずはノロウイルスが人類にとってどれだけ脅威なのかをみてみましょう。若い人にも簡単に感染するこのウイルスは激しい嘔吐(おうと)や下痢に苦しめられますが、健常者であればせいぜい数日で治癒します。後遺症を残すこともほぼありません。このため「軽い感染症」と考えられがちですが、高齢者の場合は死に至ることもあります。つい最近も富山の高齢者施設でノロウイルスが原因とされた集団食中毒が発生し1人が死亡したと報じられました。死亡した高齢者は嘔吐物を喉につまらせて窒息死したそうです。
日本では年間どれくらいの人がノロウイルスに感染し死亡しているのでしょうか。ノロウイルスを含めた感染性胃腸炎の定点(一部の医療機関が「定点」とされ、報告義務が生じる)からの報告によると、年間の感染者数はだいたい100万人前後、死亡者は2500人前後とされています。ただし、この数字はノロウイルス以外の病原体による感染性胃腸炎も含まれ、「定点」以外の医療機関での発生状況は反映されていません。もちろん、感染しても軽症で済んで医療機関を受診しないケースもかなりあるはずです。
冬に流行するノロウイルス=国立感染症研究所提供
海外のデータをみてみましょう。米国CDCによると、米国では年間約2000万人がノロウイルスに感染し、入院に至るのは約10万人、死亡者は約900人でほとんどが65歳以上です。死亡例は少ないものの感染者には乳幼児が多く、5歳まででみると毎年7人に1人が診療所を受診、40人に1人が救急外来を受診、160人に1人が入院、11万人に1人が死亡しています。ノロウイルス感染症による生産性の低下や医療費を合わせた経済的損失は約20億ドルになるそうです。
世界全体でみれば、ノロウイルスによる急性胃腸炎の患者数は毎年約6億8500万人、死亡者は約20万人です。5歳未満では2億人が感染し、小児の死亡者数は5万人です(上述のCDCのサイトより)。世界中で下痢や嘔吐を引き起こす急性胃腸炎のうちおよそ5分の1がノロウイルスによるものです。医療費と生産性の低下により、世界中で600億ドルの損害が生じていると推定されています。
開発が難しいワクチン
ノロウイルスの存在自体は前世紀から知られていましたが、私が医学部の学生だった90年代後半にはまだノロウイルスという名前はなく、当時は「ノーウォークウイルス」とか「小型球形ウイルス」と呼ばれていました。2002年の国際ウイルス学会で「ノロウイルス」という名称が決定され、以降広く使われるようになりました(一時、「野呂さんに失礼だ」という声が上がりましたが、現在は「名称を変更せよ」という意見は下火になっています)。
ノロウイルスと命名されて20年以上、電子顕微鏡で存在があきらかになってからは50年以上が経過します。これだけ長い時間が経過したのにワクチンはなぜ生まれないのでしょうか。新型コロナウイルス(以下「コロナ」)が発生からわずか1年足らずでワクチンが完成したのとは大違いです。
ノロウイルスのワクチンが開発しにくい理由には、まずノロウイルスには複数の種類があることが挙げられます。そして、いまだにウイルスが人間の細胞のどの部分に結合するかが分かっていないのも開発が遅れている理由です。発生後すぐに「ACE受容体」に結合することが判明したコロナとは大きく異なる点です。
インタビューに応じ、ノロウイルスワクチン開発について語る米モデルナ社チーフ・メディカルアフェアーズ・オフィサー(CMO)のフランチェスカ・セディア氏=東京都港区で2024年7月8日、寺町六花撮影
しかし、それでもノロウイルスワクチンは実用化まであと一歩という状況にまで来ていました。開発したのはコロナワクチンで有名になったモデルナ社です。ワクチンのタイプはやはりコロナ同様、mRNA型ワクチンです。24年の夏の時点では、臨床試験の結果は良好で、「最終段階の試験は日本を含めて実施する」と報道されていました。ところが最近、ワクチン接種後に「ギラン・バレー症候群」という神経疾患を発症した事例の報告があり、米食品医薬品局(FDA)は臨床試験を一時停止するよう命じました。報道によると、モデルナ社の幹部は「ワクチン接種後すぐにギラン・バレー症候群を発症したのは事実だが、ワクチンとの因果関係ははっきりしない」とコメントしています。
どうやって防ぐか?
さて、ワクチンがないのであればどのように対処すればいいのでしょうか。冒頭で触れた17年のコラムでも述べたように、ノロウイルスには特効薬がありません。検査方法はありますが、3歳未満か65歳以上、あるいは悪性腫瘍や自己免疫疾患に罹患(りかん)している人に限られます。また、検査の精度が高いとはいえません。結局、多くの事例では、検査をせずに診断をつけ、点滴や吐き気止めの処方などの対症療法に終始することになります。
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ならば「予防」をしっかりしておきたいところで、食べ物には気を付けなければなりません。ノロウイルスの感染源として有名なカキには特に注意が必要で、上述の富山の集団感染も「蒸しカキ」が原因だと報じられています。調理人はおそらく「火を通したから安全だろう」と判断したのでしょう。当院でも患者さんから「生は危険と知っていたから火を通したんだけれど、加熱し過ぎると小さくなっておいしくなくなる。結果として不十分だった」という声をよく聞きます。
食べ物以外に気を付けなければならないのは感染者からの感染です(これを2次感染と呼びます)。感染者の看病をしたり、一緒に食事をしたりすると感染のリスクが上昇します。当院の経験上も、家族間、特に兄弟姉妹間は簡単に感染します。もちろん、便や嘔吐物に直接触るようなことはしないわけですが、おそらく食器や家庭内用品を共有することで感染しているのだと予想されます。14年にスペインのホテルで発生したノロウイルスの集団感染では、エレベーターのボタンからもウイルスが検出されています。
そういったものに触れなくても感染することがあります。有名なのは06年に東京のホテルで発生した364人の集団感染です。このときにはホテルで供された食事や調理人からはウイルスが検出されませんでした。保健所が調査した結果、集団感染が発生した理由として「他の場所で感染した人がホテルのじゅうたんで嘔吐し、掃除の際などに空気中にウイルスが飛散した可能性が高い」と報告されています。
じゅうたんを掃除することで感染が広がるのならいったいどうすればいいのでしょうか。試みるべきは「先に消毒液をじゅうたんにかける」です。しかし、やっかいなことにアルコールはノロウイルスには効果が不十分です。消毒の効率を上げるには次亜塩素酸ナトリウムを使用しなければなりません。けれども、さらにやっかいなことに、次亜塩素酸ナトリウムは布やプラスチック、金属などを変色させることがあります。このため、美観が重要なホテルにとってはじゅうたん、ドアノブ、トイレタリー用品、水道の蛇口などに対する次亜塩素酸ナトリウムの安易な使用には抵抗があるかもしれません。
特別養護老人施設で、利用者が触れることが多いドアノブを除菌する職員=鳥取市で2014年1月24日午後3時50分、真下信幸撮影
そして、次亜塩素酸ナトリウムは皮膚には刺激が強すぎて使えません。アルコールも効かないわけですから、手洗いは流水下で時間をかけておこなうしかありません。しかし、蛇口を止めるときにウイルスが手に付着するかもしれない……、という可能性があるわけで、実はこのウイルスの対策はとても難儀なのです。また、上述したように症状が出るのはせいぜい数日ですが、感染者の便からは1カ月程度ウイルスが排出されると言われています。
ところで、ノロウイルスは一度感染しても再感染するのでしょうか。答えは「イエス」です。ただし、感染すればある程度の期間は免疫が維持されるようです。しかし、その期間についての報告はまちまちで、数理モデルに基づく計算から4.1~8.7年と、比較的長期間免疫が維持されるとする論文もありますが、国立感染症研究所は「6ヶ月から2年」としています。これでは「一度かかったからしばらく大丈夫」と言うには心もとないと言わざるを得ません。
では、結局のところどのように対処すればいいのでしょうか。月並みな答えになりますが「リスクを避けて、感染を疑えばかかりつけ医に相談する」というコロナを含めた他の感染症と同様の対処法になります。具体的には、カキを代表とする二枚貝を食すときは加熱されているかどうかに気を付けて、感染者に接したときは流水下での手洗いを徹底し、症状が出現したときには直ちにかかりつけ医に相談、という何度も聞かされた話です……。ワクチンの登場が待ち望まれます。
特記のない写真はゲッティ