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毎日新聞2024/10/10 東京朝刊有料記事1892文字
沖縄戦で那覇市内を進む米兵。那覇市は1944年10月10日の空襲で家屋の約9割が焼失、翌年の地上戦で首里市(戦後に那覇市と合併)も焼けた=45年5月22日
長すぎた夏も、さすがに去った。敗戦から79年。私の、ひと夏の経験ならぬ取材は「『記憶の継承』の継承」がテーマだった。戦争体験者が減るなか、戦後社会が継承してきた「あの戦争」の記憶を未来へどう継承すべきか。
従来の「記憶の継承」は基本型がある。空襲や戦場の体験談から「過ちを繰り返してはならない」と導き、「軍靴の響きが再び……」と警鐘を鳴らす。この型だけでは、もはや継承が難しい気もする。
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沖縄戦経験者ももはや少数派に
鈴木英生 専門記者
そんな問題意識で、まずは若手の沖縄近現代史研究者、古波藏契さん(8月14日朝刊)と話した。沖縄は戦争末期の地上戦に戦後の米軍統治、今も残る広大な米軍基地と、「あの戦争」からの連続性が強い。その沖縄でも「従来型の平和教育は限界」とか。
無論、たとえば義務教育のうちから戦争の悲惨さを徹底して教える重要性は不変だ。問題は思春期以降。子どもたちは、中高等教育期を通して「沖縄は犠牲になった」「軍隊は住民を守らない」と「模範解答」を繰り返し教え込まれ続ける。この過程で「むしろ戦争について主体的な思考が難しくなる」という。
以前は沖縄戦経験者が身近だったから、日常で生々しい記憶に触れられた。これが平和教育の「単調さ」を補ったが、今や彼らは少数である。
本土でも異変が起きてきた。旧陸軍元将兵の聞き取りをしてきた研究者、遠藤美幸さんの話(同)は衝撃だった。
2013年ごろ、遠藤さんの関わる元将兵の戦友会に、「若者」たちが参加しだした。「若者」は、「正しい歴史認識」を声高に語り、元将兵に「自分たちを卑下しないでください」などと言い募る。「若者」に「従軍慰安婦はいなかった」と主張され、ある元将校は「私が中隊の慰安所を作ったのだが……」。元将兵に「戦争を美化しちゃいかん」と諭されても、「若者」は動じない。
遠藤さんの話で、4月に陸上自衛隊の連隊がX(ツイッター)で「大東亜戦争」という語を使い、批判を浴びた件を思い出した。自衛官が先人に思いをはせるのを必ずしも全否定はしがたい。が、その思いが戦後社会のある種の「正しさ」に抵触するならば、どう反応すべきか。思案の末、ある元特攻隊員について書いた(8月27日朝刊)。
侵略忘れぬため「大東亜戦争」重要
哲学者の上山春平(1921~2012年)は、人間魚雷「回天」の搭乗員だった。戦後は京都大教授となり、「大東亜戦争」という言葉をあえて使い続けた。極東国際軍事裁判(東京裁判)は「勝者の裁き」、日本国憲法は連合国の「押しつけ」だとした。
上山によれば、戦後日本は米国側呼称の「太平洋戦争」を使うことで、あの侵略戦争をひとごとと思うようになった。自分たちは軍部などに「だまされ」ただけだと。
確かに、一般国民に開戦などの直接の責任はない。が、いくら「だまされ」たとしても、国民は主体的に戦争を支持し、戦ったと上山は感じていた。だから、「大東亜戦争」という表現は自らの侵略を忘れないためにも重要だ。
上山は、東京裁判や憲法の「押しつけ」の経緯こそ批判したが、内容は人類の平和への意志の結晶と評価した。特に強調するのは、連合国が日本に国家主権の基本要素である軍事力を放棄させた点だ。
ならば、連合国の後身・国連は、日本が軍隊抜きで存続できる状況を維持する義務がある。日本は憲法を「武器」に世界へ平和を「押しつけ」るべきなのだ。「大東亜戦争」は、日本にそんな未来への権利を与えた。だから、自らの戦友らは「犬死に」ではない。上山はそう思おうとした。
上山に不思議と共鳴したのが、小泉悠・東京大准教授と福田充・日本大危機管理学部長の話だ(9月13日朝刊)。小泉さんは「戦後日本には戦争の悲惨さを強調する表の面と、『戦った人たちへの敬意』など『裏モード』があった」と言う。表裏は「同じ人の内面に同居さえしてきた」。
戦友が「犬死に」ではないと憲法に結び付けて考えた上山を連想した。遠藤さんが聞き取りをした戦場経験者も「戦争を繰り返してはいけない」で一致しつつ、「右派」言論を好んだり靖国神社に参拝したりしてきた。この「右」や「左」で簡単に割り切れない思いこそ継承できないか。
福田さんは危機的状況で弱い立場の人を守る「リベラルな危機管理学」を提唱する。背景に、かつて受けた平和教育や同和教育(部落差別問題についての教育)がある。小泉さんは「日本国憲法が大好き。特に13条の幸福追求権」。2人は「あの戦争」の反省からタブー視されてきた分野の専門家だが、復古的でも反動的でもない。このあたりで「記憶の継承」は継承され得る。そう思うのだが。