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毎日新聞2024/11/10 東京朝刊有料記事2234文字
除本理史氏=堺市北区で、西貴晴撮影
<くらしナビ ライフスタイル>
「公害の原点」といわれる水俣病を巡って5月、熊本県水俣市で環境相が患者・被害者団体と懇談中、環境省職員が団体側のマイクの音声を切る問題を起こした。後に環境相が謝罪に回ったが、被害者に寄り添わない国の姿勢を印象づけ、水俣病問題が今なお続いていることを浮き彫りにした。真の解決に向けた課題とは。大阪公立大の除本理史教授(環境政策論)に聞いた。【聞き手・西貴晴】
新健康調査にも疑問符
――5月のマイク問題をどう見ましたか。
◆環境省の対応によって「(被害者の声を)聞く気がない」ことが分かり、被害に背を向けてきた国の姿勢が露呈しました。水俣病は今も1700人余り(新潟水俣病を含む)の住民が国などに損害賠償を求めて訴訟を続け、2023年から24年にかけては大阪地裁で原告全員を、熊本、新潟両地裁では原告の一部を新たに水俣病と認める判決が出ています。本題の救済問題の解決に向けて合意形成をしなくてはならない時に困ったことだなとは思いましたが、多くの人はマイク問題のニュースを通じ、「まだ水俣病って続いているの?」と改めて気づいたのではないでしょうか。
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――補償や救済は今も問題になっているのですね。
◆水俣病は1956年、公式確認==されました。補償・救済の根幹となるのは9月に施行50年となった公害健康被害補償法(公健法)に基づく補償です。認定された人に原因企業チッソ(東京)から1600万~1800万円の一時金や医療費などが支給されます。
しかし、国の基準は代表的な症状とされる手足の感覚障害に加え、視野狭さくや難聴といった複数症状の組み合わせを求め、認定の間口は狭い。このため国やチッソに損害賠償を求める訴訟が各地で続き、政府は95年に政治決着を図りました。未認定患者約1万人に対し、チッソが1人260万円の一時金などを支払う内容で「これで水俣病問題は終わった」とされました。
ところが04年、水俣病関西訴訟の最高裁判決で、感覚障害のみの原告への賠償も認めたのです。司法による事実上の認定基準の緩和と受け止められ、認定申請者が急増しました。そこで国が09年に制定したのが、水俣病被害者救済特別措置法(特措法)です。認定基準より緩やかな条件をつくり、熊本、鹿児島両県で約3万人に1人210万円の一時金などが支払われました。医療費支給のみのケースを合わせると、約3万6000人が新たに救済を受けたことになります。
――さまざまな解決策が繰り返されてきたのですね。
◆特措法は「あたう(可能な)限りの救済」を掲げましたが、申請は12年7月で締め切られました。その後も「差別を恐れて申請しなかった」「特措法を知らなかった」と救済を求める人が続出し、現在の訴訟につながっています。
特措法で国は熊本、鹿児島両県で八代海に面する計9市町の全部または一部を救済対象地域としました。一方、訴訟には八代海沿岸でも対象から外れて原告になった人も多く「魚は海を泳ぎ回るのに、陸上に線を引くのはおかしい」と反発しています。
被害の全容は今も分かっておらず、環境省は特措法の条文に盛り込まれた沿岸住民の健康調査に25年度から着手する方針です。ただ、感覚障害の有無を検知する脳磁計やMRI(磁気共鳴画像化装置)を活用する環境省案に対し、被害者側などからは「時間がかかりすぎる」「医師の所見を尊重すべきだ」といった疑問や批判も相次いでいます。
障害を抱える患者ケア課題に
環境省職員が水俣病被害者側の発言中にマイクの音を切った問題を受け、水俣病患者連合の松崎重光副会長(左)に頭を下げる当時の伊藤信太郎環境相=熊本県水俣市で5月8日、平川義之撮影
――課題が山積です。
◆水俣病は根本的に治す方法がありません。患者は高齢化し、胎児性患者を中心にその生活を支えてきた親世代も次々と亡くなっています。障害を抱えて暮らす患者のケアをどうするかも課題です。
――水俣病の問題は、私たちに何を問い掛けているのでしょうか。
◆水俣病の発生が確認されてからチッソの水銀排水が止まるまでには12年かかりました。経済や健康、環境など多様な価値の中で、経済に目を向けることが駄目とはいいません。しかし、当時は水俣病対策に注力することが経済成長の阻害要因とされました。人の健康が犠牲になったのが水俣病だったのです。
どの価値に重きを置き、どうバランスを取るか。東京電力福島第1原発事故後の社会の対応も同じです。災害が多発する中で「予防原則に従ってリスクに対処すべきだ」との総論には賛成でも、各論となればコストの問題に矮小(わいしょう)化されてしまいがちです。
過去の失策の批判は簡単ですが、水俣病の問題は、私たちが社会の中で何を大切と考え、具体的な政治の意思決定にどう生かしていくかを突きつけているのではないでしょうか。問われているのは今の私たちだと思います。
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■ことば
水俣病の公式確認
水俣病はチッソ水俣工場(熊本県水俣市)の排水に含まれた、メチル水銀が蓄積された魚介類を食べた人が発症した中毒症。1956年5月1日、チッソ付属病院から水俣保健所に患者発生が報告されたのが公式確認とされる。65年には新潟県でも同様の症状が確認された。
■人物略歴
除本理史(よけもと・まさふみ)氏
1971年生まれ。一橋大大学院経済学研究科修了。公害補償と地域再生、福島原発事故の賠償などを研究。著書に「公害の経験を未来につなぐ」「福島『オルタナ伝承館』ガイド」(いずれも共著)など。