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毎日新聞2024/11/11 06:00(最終更新 11/11 06:00)有料記事2602文字
骨組み完成の最後の作業として、屋根の最上部に棟木が取り付けられる首里城正殿=那覇市で2023年12月25日午前10時45分、喜屋武真之介撮影
2019年10月31日に那覇市首里にある首里城が全焼してから、先月で5年がたった。火災発生当時は東京本社に勤務しており、会社のテレビで炎上する首里城を見て驚いたのを覚えている。確かに沖縄出身者として衝撃的な出来事だった。しかし、メディアを中心に、首里城を「沖縄の魂」「県民の心のよりどころ」「アイデンティティー」などと表現することが当然のようになっている現状には、違和感を拭えずにいる。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として世界文化遺産登録されたことでも有名になった首里城だが、今回の火災で焼失した正殿などは文化財ではないことは、意外に知られていないのではないだろうか。世界遺産となっているのは「基壇」と呼ばれる正殿の土台だけで、琉球国の時代から残っていたかつての首里城は、第二次世界大戦末期の地上戦で米軍の激しい攻撃を受け、1945年に壊滅した。5年前に焼失した建造物は、92年以降に復元されたものだ。
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2019年に全焼した首里城正殿の復元整備工事起工式後、構造材に使う木材「オキナワウラジロガシ」でノミ入れ式を行う参列者たち=那覇市で2022年11月3日午後2時40分、喜屋武真之介撮影
「前回の復元は行政主導で、地元の人たちとも距離があった」。沖縄国際大の桃原(とうばる)一彦教授(社会学)はそう振り返る。首里に近い南風原町出身で、首里城の復元工事が始まっていた90年ごろは大学生として首里の酒屋でアルバイトをしていて、配達で飲食店なども回っていても「復元工事をしていることを知らない人もいた」という。
首里城は復元後の沖縄ブームや九州・沖縄サミットの開催といった出来事を受け、認知度が急速に高まり、沖縄イメージの象徴として定着していく。桃原教授によると、出稼ぎなどで県外移住した沖縄出身者やその子孫の生活史を調査した際、首里城火災の話になると涙する人も多く、沖縄県人会はいち早く募金活動などに取り組んでいた。桃原教授は「沖縄出身者と言ってもさまざまな島、地域にルーツを持つ人たちがおり、子孫だと沖縄に住んだことがない人もいる。その人たちが共有できる『沖縄』が首里城だった」と語る。
若者はどう見ているのだろう。火災から約1年後に桃原教授のゼミの卒業生と在校生が集まり、沖縄を巡るさまざまなテーマについて話しあったことがあった。首里から離れた沖縄本島中部の出身者が多く、一度も首里城に行ったことのない生徒がほとんど。首里城火災について「ピンときていなかった。観光や経済への影響は気にしつつ、悲しいというようには感じていなかった」(桃原教授)という。
琉球国の時代、沖縄本島から遠く離れた宮古島などでは、王府から重い人頭税を課せられていた。桃原教授が宮古島を訪ねた際、王府による圧政の歴史を重ねて「首里城には絶対に行かない」と語る住民もいたという。桃原教授は「首里や那覇中心の美しく奇麗な歴史が語られがちだが、離島や沖縄本島のほかの地域の人たちからすれば、首里城は権力の象徴だった。その歴史も伝えていかなければいけない」と、一面的な歴史認識の広がりに警鐘を鳴らす。
首里城公園の無料エリアで披露されていたパフォーマンス=那覇市で2024年11月4日、喜屋武真之介撮影
「首里城はなくていいとすら思う」。そう踏み込んで語るのは、首里城公園に隣接する沖縄県立芸術大の呉屋(ごや)淳子准教授だ。沖縄各地に受け継がれている芸能を研究しており、「首里城で行われる芸能だけが琉球の芸能のように語られると、他の島々や地域に伝わる芸能の多様性が見えづらくなる」と批判する。
それだけではない。火災後、首里城では正殿の再建工事が一般公開され、週末を中心に多くのイベントが開催されているが、呉屋准教授は「テーマパーク化している」と厳しい。実際、今年2月に開催されたイベントは「琉球文化テーマパーク体験ツアー」と銘打っていた。「火災前は首里城で上演するにふさわしいか、ある程度の基準があり、断られる保存会もあった。今は観光資源としてのカラーが強すぎて、何でもありになっている」
その流れの中で呉屋准教授が危惧するのが、芸大生の安易な利用だ。芸大生を雇って観光客向けに琉球芸能を披露する飲食店も県内にはあるといい、「芸能を学んでいる最中の学生が、飲み食いをしたり通り過ぎたりしていく観光客を前に芸能を披露し、消費されていく。それは舞台経験を踏むこと以上にデメリットが大きい」と呉屋准教授は語る。ただし首里城に対しては「ネガティブな声を上げにくい雰囲気がある」とも感じている。
再建に携わっている関係者はどう考えるのだろう。考古学が専門で「首里城復興基金事業監修会議」の委員を務める安里(あさと)進・県立芸大名誉教授は「首里城は約30年間で沖縄の象徴的な存在として浸透した」と語る。一方で「過去に学び、当時の人たちの感性や美意識を感じる場所であり、今の私たちのアイデンティティーを投影するべきではない」と複雑な胸中を吐露した。
そう語る背景には、首里城の瓦を巡る議論がある。92年復元の正殿の瓦はすべて赤。しかし再現しようとしている18世紀後半ごろの瓦は、後の研究でかなりの部分が灰色だったことが明らかになった。今回の再建を巡っても、技術や工期などの問題で赤のまま再建することになったものの、安里名誉教授は「仮にそれらの問題をクリアしたとしても、灰色にすることができたかどうかは疑わしい」。92年以降に判明した新たな知見を反映させず「火災前の首里城のまま再建すべきだ」という意見もあったといい、すでに定着している首里城のイメージから大きく外れようとすれば「県内から大きな反発が起きる」と感じたという。
文化財の復元は本来、客観的な資料に基づいてより正確な再現を目指すべきものだ。安里名誉教授は「完成して終わりではなく、検証と修正を続けていかなくてはならない」と語り、将来的には、修繕などのタイミングで瓦の色を含め、首里城の姿を変える必要性を指摘した。
首里城を「魂」や「心のよりどころ」と呼び、安易にアイデンティティーと結びつけてしまうことは、首里城をそう位置づけていない人たちとの間に溝を生み、文化財としてのあり方や観光とのバランスなど、さまざまな議論をゆがめてしまうかもしれない。沖縄の歴史は極めて複雑だ。だからこそ美化するのでも利用するのでもなく、冷静な議論を続けていく必要がある。「首里城を通じ、私たちが私たちをどう克服するか」。安里名誉教授の言葉は、歴史を学ぶ意義そのものだろう。【写真映像報道部兼那覇支局・喜屋武真之介】
<※11月12日のコラムはオピニオン編集部の鈴木英生記者が執筆します>