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毎日新聞2024/11/13 06:00(最終更新 11/13 06:00)有料記事2215文字
大河小説「土地」の日本語翻訳本を手に20巻完訳を朴景利(パク・キョンニ)さんの墓前に報告するクオンの金承福(キム・スンボク)代表(左端)と読者ら=韓国南部の統営市で2024年10月19日、堀山明子撮影
韓国文学界で「記念碑的な作品」といつも形容される大河小説がある。女性作家の草分け、朴景利(パク・キョンニ)さん(1926~2008年)の代表作「土地」(20巻)だ。
この日本語訳が10年がかりで10月半ばに完了。出版社クオンの関係者と読者ら約30人が完訳報告で墓参に行くというので同行した。ハン・ガン(韓江)さんのノーベル文学賞受賞が決まった直後とあって、図らずも韓国文学の源流を訪ねる旅となった。
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ドラマにもなった名作
「土地」は、李朝末期から日本による植民地支配解放まで、時代に翻弄(ほんろう)されながらも強く生きる大地主の娘を主人公に、600人以上の人間模様が描かれた作品。ドラマや映画、漫画、童話にもなったので、韓国人ならだれでも知っている小説だ。
作家の人生は、激動の韓国史そのもの。父は幼いころに家庭を捨てて別の女性のもとへ走った。夫は朝鮮戦争の混乱の中で獄死。幼い長男も事故で亡くした。身内を喪失したどん底の1950年代半ば、作家活動を本格化させる。
「土地」の連載は69年から始まり、終了まで25年かかった。長女の夫で、民主化活動家の詩人、金芝河(キム・ジハ)さんが74年に逮捕され死刑判決が出ると、救援活動に奔走した。
逆風バネに挑む
大河小説「土地」の著者、朴景利(パク・キョンニ)さんの写真が掲げられた記念館内部。朴さんは晩年、畑仕事をしながら執筆した=韓国南部の統営市で2024年10月19日、堀山明子撮影
「それまで親しかった人が離れ、すべての道が閉ざされた感覚に陥った時、決心したそうです。棚上げにしていた歴史小説を書こうと」。こんな秘話を明かしたのは、女性の生き方をテーマにした小説が日本でも人気の作家、孔枝泳(コン・ジヨン)さん。韓国のほぼ南端に位置する朴さんの故郷、慶尚南道(キョンサンナムド)統営(トンヨン)市での完訳記念会に駆けつけ、スピーチした。
金さんが弾圧された時、「土地」の連載はもう始まっていたが、5部作もの長編になったのは逆風をバネにしたからということか。孔さんの思い出話は続く。
初めて自宅を訪問した時、書斎にあるミシンを見せながら、朴さんが語った言葉が忘れられないという。
「女性が書く歴史小説がうまくいくか分からない。失敗してもミシンで食べていけると信じて書いた。その代わり文章では絶対に妥協しないと誓って……」
孔さんは話を聞いて、自分をここまで追い込んだからこそ、あの大作を書けたのだと感じた。
朴さんは後輩の育成や日韓文学者の交流にも力を注いだ。2002年に開かれた日韓文学シンポジウムでスピーチをしたこともある。「土地」翻訳本を編集した藤井久子さんは当時、朴さんが会場に入っただけで空気が張り詰めたのを覚えている。存在感があった。
「印象的だったのは、式が終わると、韓国の女性作家たちがうれしそうに朴先生を囲んでいた光景です。敬愛されている様子がはっきり感じとれました」
自ら和訳試みて断念
統営市にある朴景利記念館には、ミシンを置いた書斎がそのまま再現されていた。手書きの原稿も展示されていて、「土地」第1部の日本語訳原稿もあった。何カ所も修正があり、苦労がにじみ出ている。
大河小説「土地」の著者、朴景利(パク・キョンニ)さんの記念館全景。銅像の台には「捨てる物しかなくて、本当に身軽だ」と書かれている=韓国南部の統営市で2024年10月19日、堀山明子撮影
翻訳を試みていたのは05~06年ごろ。体調を崩して新作の連載が書けなくなった最晩年だ。1980年代に第1部だけ日本語訳が出版されたが、翻訳者と対立して続かなかった。それが心残りだったのだろうか。
「自ら翻訳しようとして断念したので、完訳ができて喜んでいるでしょうね」。学芸員は静かに語った。
「やっと」墓前で報告
記念館から散歩道が続き、階段を上った高台に作家の墓がある。目の前に、穏やかな海が広がっていた。
記念会に先立ち行われた墓前での完訳報告会。参加者が1冊ずつ翻訳本を手にこんもりした墓を囲み、14年に翻訳作業が始まって今日までの道のりを語った。
「ここに来たのは1、2巻が出版された16年以来。長くかかりすぎて、もう来ないんじゃないかと心配かけましたね。ようやくできました」。共訳者の一人、清水知佐子さんはホッとした表情で作家に報告した。
ハン・ガン文学も翻訳
「土地」20巻日本語完訳記念会で、著者の朴景利(パク・キョンニ)さんの思い出話をスピーチする作家の孔枝泳(コン・ジヨン)さん=韓国南部の統営市で2024年10月19日、堀山明子撮影
20巻の完訳は世界で初めて。クオンは07年に設立された韓国文学専門の出版社で、日本で出版されたハン・ガンさんの翻訳本8冊のうち4冊はここで出している。代表作の「菜食主義者」は同社の「新しい韓国文学シリーズ」第1作だ。金承福(キム・スンボク)代表はさらに「土地の完訳ができれば、小さな出版社でも信頼される」と考え、あえて難関に挑んだ。
韓国で文学博士号を取得した翻訳家の吉川凪さんは、最終的には共訳の仕切り役を引き受けたが、当初は断り続けた。翻訳に着手した14年は嫌韓ブームが残り、韓国翻訳本はそれほど売れていなかったからだ。
「弱小出版社が翻訳資金を調達できるのか、それ以前に著作権を確保できるのか、何も分からない状態で、あるのは社長の情熱だけでした」。吉川さんはその時の心境をこう振り返る。
「朴景利(パク・キョンニ)記念館」に展示された書斎の復元。左にミシンが置いてある=韓国南部の統営市で2024年10月19日、堀山明子撮影
ハンさんが19年に韓国で最も権威のある「仁村賞」を受賞した際、「朴景利先生のような素晴らしい作家が受賞した賞をもらえてうれしい」と喜んだ。生命の痛みと向き合い、愛を探す。2人のテーマはつながっているように感じる。
旅の途中、クオン関係者は「土地」完訳だけでなく、翻訳作品のノーベル賞受賞の祝福も受け、二つの「おめでとう」が溶け合った。雪の下で春を待つ種は、時が来れば一気に芽吹く。種を植えることが大事だ。【外信部・堀山明子】
<※11月14日のコラムは古河通信部の堀井泰孝記者が執筆します>