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毎日新聞2024/11/15 東京朝刊有料記事4427文字
2024年のノーベル文学賞は韓国の作家、ハン・ガン(韓江)さん(53)に決まった。アジア初の女性作家の受賞である。小説や詩など、これまで8冊が邦訳されている隣国の作家の受賞は、日本の文学界や出版界にも大きなインパクトを与えた。ハン・ガン文学の魅力と、今回の受賞決定が意味することとは何か。
早稲田大教授の都甲幸治氏=棚部秀行撮影
期待の3歩先を行く「革命」 都甲幸治・早稲田大教授
2024年のノーベル文学賞は「革命」の年になった。この賞は近年、地域性やジェンダーに配慮するようになったが、受賞者は100年ほど、まずはヨーロッパ人であり、男性であり、年齢が高く生涯最後にもらう大きな賞になっていた。だが、選考委員の情報漏えいといった不祥事があり、それ以降、地味だが、文学研究者の間では評価の高い人に順当に賞が与えられるようになった。その流れが今年一段と進んだ。期待の3歩先を行っている。アジアの中で日本や中国でもなく、女性で、50代前半と若い。画期的だ。
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歴史を直視する、といえばお説教のようになるが、ハン・ガンさんは詩的なイメージでどんどん読者を引き込み、過去とどうつながり、死者を鎮魂するかを考える。立場の違う人を糾弾して声高に叫ぶのではない。作品自体が「お墓」のようだ。世界のほとんどはもともと植民地かその宗主国であり、暴力の記憶と連鎖は続いているわけだから、主題的に非常に共感できる。現代の世界的な文学研究の潮流にも乗り、戦争がこれだけ起こっている現在、タイミングとしても合致している。
今回のハン・ガンさんの受賞決定は、日本にも大きな転換を促すだろう。日本では明治以来、ずっとヨーロッパが文学の中心で、ついで北米や中国、中南米が続くような位置づけがあった。上下ではないが、韓国や台湾の文学から学ぶという発想はあまりなかったと思う。日本のヨーロッパへキャッチアップする型の教養主義は完全に崩壊している。今年のノーベル文学賞はそれにとどめを刺したといえる。
音楽も同じだ。私たちの世代は、ビートルズなど英米のロックバンドを立派だと信じて育ってきた。だが今のKポップのファンにそれはない。ネット社会の発展により、研究者や専門家による情報の独占が崩れた。好きな人が好きなグループを配信でガンガン聞いて、お金を払う。偉いものを見上げる形で受容するのではなく、身近に楽しむ。自分が面白いと思えば、偉いか偉くないかなんて関係なく、文化を受け入れるようになった。
韓国文学では特に最近の10年、この流れが顕著だった。翻訳も大学の先生やプロではなく、特に若い女性たちが自分の感覚でどんどん訳している。単純に好きな人がクオリティーの高い翻訳をすればあとは気にしない。根本的な変化が世界的に起こっている。今、韓国が先導して、アジアのさまざまな文化、文学や音楽の地位を世界的に押し上げている。韓国政府の支援もあり、文学では翻訳家が育っている。この積み重ねは大きい。
実は韓国の人々は日本の文学を長年読んできてくれている。今後は韓国で育った文学を、日本の作家が発見し、影響を受け、新しい形を模索しながら書いていくことになるだろう。ヨーロッパやアメリカにコンプレックスを持っておらず、日本文学、韓国文学という区別はせずに、読んで良かったものは良い、と言える読者がたくさん出てくると考えている。【聞き手・棚部秀行】
書評家の江南亜美子氏=村田貴司撮影
言葉に時代、国境超える力 江南亜美子・書評家
ハン・ガンさんは「痛み」の作家だ。歴史の中で市井の人が傷を負う、その感触を小説で大事にしている。今回の授賞にどれだけ政治的な意味があったのかはさておき、ガザやウクライナでたくさんの命が失われている現実を前に、私たちは文学を通じて他者への想像力を持たねばならない、というメッセージを感じた。
韓国文学には傷ついた人間を描いた作品が多い。韓国は日本の植民地支配や南北分断、朝鮮戦争を経験し、「圧縮された現代史」を生きてきた。軍事独裁は1980年代後半まで続き、言論統制もあった。そうした歴史との距離が近いからこそ、忘れまいと書き留めておくことに作家の責務を見いだしている人が多いのではないか。
特に女性に共通するテーマとして、家父長制への反発もある。家庭内のあつれきなどを強烈なイメージで描いたハン・ガンさんの「菜食主義者」もそう。韓国では90年代以降の「第3波フェミニズム」のムーブメントを生かした小説が次々に出版された。日本ではチョ・ナムジュさんの「82年生まれ、キム・ジヨン」が2018年に翻訳され、韓国文学がブームに。フェミニズム的な文脈で小説を書く意識が、日本でも高まった。村上春樹さんや吉本ばななさんら日本の作家は韓国の若手に多大な影響を与えてきたが、今や日韓の文学は相互的な影響関係にある。
歴史や社会的なテーマを扱う韓国文学の中でもハン・ガンさんの小説は別格だ。詩人でもある彼女は、具体的な現実と同時に、死者の声や幻影、夢といった抽象化された思念のようなものを紡ぐ。イメージを喚起する言葉には時代や国境を超える力がある。
80年の光州事件を題材にした「少年が来る」は、弾圧の犠牲になった少年の視点から物語が始まる。死者の声を代弁することをハン・ガンさんは恐れない。なぜなら傷ついた他者の声を繊細に扱うから。そこにあるのは、言葉への信頼といえるのかもしれない。
「傷とその回復」は文学の普遍的な主題だが、ハン・ガン作品には「他者が回復を促すことは暴力にもなる」というメッセージがあるように思う。傷は簡単には癒えない。だから、「暗さ」にとどまってもいい。このメッセージは、歴史を忘れていこうとする推進力や効率主義へのプロテスト(抗議)でもあるだろう。
日本には韓国文学翻訳の蓄積があり、翻訳者や出版社がその土壌を培ってきた。韓国の小説がなじみ深いものとなったことで、例えば春秋社が今年4月に刊行を開始した「アジア文芸ライブラリー」シリーズのように、チベットやマレーシアなど他のアジアの小説も日本語で読めるようになっている。マイナーな言語の小説も読めるのは豊かなことだと思う。
歴史やルーツの問題を斜に構えず小説に書く若い作家が日本でも出てきている。今回の受賞でそうしたムードを文学界全体が引き受けることになるかもしれないし、その中でハン・ガンさんのような作家が生まれることを期待したい。【聞き手・清水有香】
小説家の中沢けい氏=棚部秀行撮影
評価された市民的感受性 中沢けい・小説家
ハン・ガンさんのノーベル文学賞の受賞決定を聞き、ストレートにうれしく感じた。
アジアで初めての女性作家の受賞であり、同時代性があって、問題意識が共有されている。ハン・ガンさんは、戦争を国際社会のパワーゲームや政治的な権力闘争の枠組みでは捉えず、例えば「お母さんが泣いていた」という場面から描き出していく。二項対立を否定する柔らかさがある。この手順が私の気持ちにとても近い。個人の心情から全体像を見せていくという、彼女の手段を知っている人たちは、みんな受賞を喜んでいる。女性的な物語の手法が認められ、そこに日が当たったと感じている。
ハン・ガンさんの本の翻訳のされ方や、本を出した出版社があまり大きくなかったところは「緩やかな紐帯(ちゅうたい)」だといえる。絵本の「スイミー」みたいに、小さな魚が集まって、大きな魚になったようだ。背景には、女性の優れた訳者が増えていることもある。緩やかな紐帯、緩やかな集団行動は非常に女性的だ。地球の温暖化も感染症の拡大についても、権威主義的ではなく、みんながああしようこうしようと、助け合いながら秩序を探し出すほうがいい。市民的能力、市民的感受性が世界的に評価されたとも受け止めている。
英ブッカー国際賞を受賞した「菜食主義者」は、肉を食べられなくなった女性が肉食主義者よりも強くなる話だ。文学にはある程度、経済成長して資本主義の生活の快適さを味わった人ではないと書けない部分がある。この作品は、ジェンダーの観点で読み解かれがちだが、実際は競争主義への強烈なNOだとも思う。これら人間が持ってしまう感性への根源的な批判が、普遍性をもって読まれている。アジアでは、そこに歴史的事情を含んで物語が共有されているのが大きい。
ハン・ガンさんの受賞決定を受け、当事者にはできないことを次の世代はできるし、やらなければならないと考えている。当事者でなければ発言してはいけないという否定的な声に、私たちはおびえすぎたと後悔している。被害者だけではなく、加害者としての視点もそうだ。例えば、日本中に朝鮮人犠牲者の追悼碑が200基以上もある。ハン・ガン作品での歴史への向き合い方が評価されていると言われているが、参考になるところは多い。
韓国の小説や詩の根源的な力は、南北に家族が別れたり、民主化運動で人が殺されたり、痛切な体験をしている人が多いところにある。朝鮮戦争も終わっていない。個人的には、今年ノーベル文学賞を韓国の作家が受賞し、平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞したというのは、偶然ではないと思っている。朝鮮半島には東西の冷戦構造が残っていて、この地域には核の脅威も存在している。それをなんとか解決するよう期待されている気分だ。世界の人が受賞を機に本を読んで、この地域の歴史に興味を持ち、新しい知恵が生まれてくることを願っている。【聞き手・棚部秀行】
注目、日本作家へも
ハン・ガンさんの英ブッカー国際賞受賞(2016年)以降、英語圏では日本の女性作家にもさらに注目が集まった。全米図書賞(翻訳部門)では、18年に多和田葉子さんの「献灯使」、20年に柳美里さんの「JR上野駅公園口」が受賞。同年、小川洋子さんの「密(ひそ)やかな結晶」がブッカー国際賞の最終候補に。村田沙耶香さん、川上未映子さん、川上弘美さんらの作品も英訳され人気を得ている。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
都甲幸治(とこう・こうじ)氏
1969年生まれ。著書に「教養としてのアメリカ短篇小説」、編著に「ノーベル文学賞のすべて」、訳書に「勝手に生きろ!」(チャールズ・ブコウスキー著)など多数。
■人物略歴
江南亜美子(えなみ・あみこ)氏
1975年生まれ。京都芸術大准教授。専門は文芸批評、現代文学。共著に「韓国文学を旅する60章」「世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今」など。
■人物略歴
中沢けい(なかざわ・けい)氏
1959年生まれ。法政大教授。78年「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞し作家デビュー。他に「女ともだち」「楽隊のうさぎ」など。K-BOOK振興会代表理事。