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毎日新聞2024/11/16 東京朝刊有料記事1019文字
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太宰治といえば青森県津軽地方の生家「斜陽館」が有名だが、代表作の多くを生み、ついのすみかとなる創作活動の根城は、東京・三鷹の質素な借家だった。
JR三鷹駅前のビル内に、3間12坪半の室内を復元した展示室がある。現在、作家晩年の担当編集者、石井立(たつ)の残した資料が特別展示されている(12月1日まで)。
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「人間失格」脱稿の1カ月後、太宰は愛人と入水自殺した。理由は不明だが同時期、文学の師と慕った井伏鱒二と不和を生じ、その影が長らく詮索されてきた。
井伏は薬物中毒の太宰を入院させたことがあり、その経験を小説にした。「井伏選集」の編者を任された太宰はそれを知り、自分を廃人扱いした、裏切られたと衝撃を受け、手帳に井伏への悪罵をなぐり書きして逝った。
そこから「井伏悪人説」が流布し、例えば猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」(2000年)は師弟の決裂を殊更に暴きたてる。
選集編集者だった石井は、太宰の筆による目次案の変遷や井伏の書簡類を子細に保存していた。2人から深く信頼され、応酬の渦中に立ち会った証人である。
石井は何の推測も釈明も語っていない。太宰の死後、自ら哲学者ショーペンハウアーの「自殺について」を翻訳した程度だ。
それでも資料は大切に守り、後世に託した。展示を見ていくと、75年の歳月を超えた頑固な沈黙にこそ、編集者の誇りと信念が込められているようだ。ゴシップに頼るな。作品を読め、と。
5年前に亡くなった評論家の加藤典洋は「太宰と井伏 ふたつの戦後」(07年)で、2人の確執を巡る猪瀬氏の解釈を、文学作品の受け取り方として一面的で浅いと断じた。そして太宰の死に、戦争の時代と戦後どう向き合うかという意外な断面から切り込む。
それも一つの解釈にせよ、師弟間の緊張を「名勝負」とたたえ、あくまで作品の読みに徹して双方の名誉を高めたいと願う姿勢は、石井の遺志にかなうだろう。
展示を監修した安藤宏東京大名誉教授は、太宰の井伏批判に兄貴分への「すねと甘え」を読み取り、石井がちょうつがいとなって暴発を防いだと想像する。
今年の日本学士院賞受賞作「太宰治論」では、もっと大胆な解釈を論じている。2人の丁々発止は近代作家のパフォーマンスで、太宰の死の本質は、小説家としての衰弱にあったというのだ。
文学趣味の閑談ではない。例えば政治を論じても、人間関係のドタバタにとらわれすぎると大事なものを見失う。(専門編集委員)