|
毎日新聞2024/11/17 06:00(最終更新 11/17 06:00)有料記事2222文字
「コーダのことは忘れない」と話す「コーダホテル」のオーナー、アリ・アルサイダトさん=ヨルダンの首都アンマンで2018年3月、鵜塚健撮影
自民党が大きく議席を減らした衆院選から2日後の2024年10月29日、ある男性がこの世を去ってから20年たった。ちまたのニュースは今後の政権の枠組みや近づく米大統領選関連の話題ばかり。私が調べた限り、この頃に男性の死について報じた主要メディアはなかった。
忘れないでいたい。04年10月27日、男性は、米国が始めた戦争により混乱が続くイラクで、武装勢力に人質として拘束された。福岡県直方市の香田証生さん(当時24歳)。海外支援に関心があり、イラクで傷つく人々に心を寄せていたようだ。
Advertisement
当時、日本は米国の意向を受け、「復興支援」の名目でイラク南部サマワに陸上自衛隊の部隊を派遣していた。武装グループは人質解放の条件として、48時間以内に自衛隊を撤退させるよう日本に求めた。
犠牲者家族が「おわび」
香田証生さん
香田さんは、武装勢力が撮影した映像の中で、犯人側の要求を日本語で伝え、最後にこう伝えた。「すみませんでした。また、日本に戻りたいです」。しかし、政府は「テロには屈しない」と要求を拒否した。2日後の29日に香田さんは殺害され、後日遺体で発見された。遺体は米国旗に包まれていた。
当時、香田さんの自宅や地元市役所には「自己責任」「自業自得」といった中傷の電話やファクス、メールが殺到した。香田さんの家族は市を通じて「多くの方々に大変な心労をかけ、おわび申し上げます」とのコメントを発表した。日本社会を覆う空気が、犠牲者の家族を「おわび」に追い込んだ。
香田証生さんの遺体と対面した後、自宅に戻った父真澄さん(左)と母節子さん(右)=福岡県直方市で2004年11月4日午前0時45分、上入来尚写す
当時のイラクは治安悪化が進み、外務省から退避勧告も出ていた。こうした状況で安易に入国したことに批判の声もある。一方で、香田さんが人質として拘束される原因となったのは自衛隊派遣だ。その正当性を巡っては、国会で議論になったが、当時の小泉純一郎首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と強引に主張して乗り切った。
その後、米国が開戦理由とした「大量破壊兵器」は見つからず、戦争の根拠自体が揺らぐ。米国の政策に無批判に従った日本政府の判断もまた安易であり、より罪深かった。
「コーダの名前を残したい」
事件が急速に風化していく中で、18年2~3月、私は休暇を利用して中東ヨルダンの首都アンマンを訪れた。香田さんが直前に滞在した町で、その足跡を少しでもたどりたかった。
事件から13年以上たっていたが、香田さんを覚えているヨルダン人たちがいた。ホテルを経営するアリさんは当時、香田さんを含めた日本人旅行者らに食事をふるまったという。香田さんの死に心を痛め、07年にホテルの別名を「コーダホテル」とし、日本語の看板を掲げた。「武装勢力の行為はイスラム教徒として許せない。悲劇を繰り返さないためにコーダの名前をずっと残したい」と私に語った。
香田証生さんがイラク入りする前に滞在していたヨルダンの首都アンマンの市街地=2018年3月、鵜塚健撮影
「コーダホテル」と命名することをアリさんに提案したのは元ホテル従業員のサーメルさんだった。イラク行きを断念するよう香田さんを最後まで説得したが、聞き入れられなかったという。「コーダはジャーナリストになりたいと言っていた。けがをしたイラクの子どもの写真を手にし、どうしても現地で確かめたいと譲らなかった」
コーダホテルは、日本人バックパッカーの間で有名になる。私が訪れた際も名古屋から来た男子大学生が滞在していた。パレスチナ自治区に向かう途中だったという。香田さんの当時の行動については「同年代として理解できる部分もある」と語った。香田さんへの思いを旅行客が書き込んだノートもあった。香田さんは多くの人の心の中でまだ生きていた。
吹き荒れたバッシング
「自己責任」という言葉が頻繁に使われ始めたのは、香田さん殺害事件の半年前だ。04年4月、日本人3人が武装勢力に拘束される事件が起きた。交渉の末、3人は無事に解放されたが、この時も強いバッシングが吹き荒れた。
当時18歳で、3人のうち最も若かったのが今井紀明さん(39)だ。帰国後も「非国民」「死ね」などと激しいバッシングを浴びた。一時は引きこもりや希死念慮に悩まされたが、大学卒業後は会社員を経て、若者支援のためのNPO「D×P(ディーピー)」(大阪市)を12年に立ち上げた。困窮、孤立する若者の相談に乗り、必要に応じて食料や現金を支援する。多くは家族からの虐待や性暴力に悩まされ人たちだ。
拘束された当時、香田さんと年齢が近かった今井さんは20年を経てこう語る。「香田さんがもし生きていれば、当時の経験を生かし、きっと何かをやりとげていたのではないでしょうか」
「挑戦する人を萎縮させていいのか」
NPO法人「D×P」を運営する今井紀明さん=大阪市中央区で2024年4月9日、久保玲撮影
当時を振り返り、「企業人でもジャーナリストでも事件に巻き込まれることはある。バッシングで追い込むのではなく、長期的に見守ることが大事だと思う」とも話す。さらに自身と香田さんの経験をふまえ、問いかける。「困難に挑戦しようとする人を批判し、萎縮させる社会でいいのでしょうか」
今井さんが運営するディーピーは、若者支援の分野では有数のNPOに成長。全国の自治体や学校、企業とも連携して活動の幅を広げる。10代での失敗と苦悩を経て今、大きな力を発揮している。
香田さんも生きていたら……。失った命の重みを考えると同時に、「私たちの社会が香田さんを見殺しにしたのではないか」との問いを反芻(はんすう)する。忘れてはいけない。【社会部大阪グループ・鵜塚健】
<※11月18日のコラムは運動部の倉沢仁志記者が執筆します>