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毎日新聞2024/11/20 東京朝刊有料記事4350文字
福典之さん
国立スポーツ科学センター(JISS)は、2017年に始めたアスリートの遺伝子と、競技成績やけがのリスクの関連を調べる研究を停止した。選手の選別、差別につながるとの懸念の声を受けての措置だった。遺伝子からスポーツの適性も分かりつつある時代。選手は何を求めるのか。研究はなぜ慎重に行われるべきなのか。
効果的トレーニングへ期待 福典之・順天堂大教授
遺伝子は、体の中で必要なたんぱく質を作り出す情報だ。たんぱく質を作るだけでなく、不必要なものは作られないようにして、生理現象をつかさどっている。スポーツでは、持久力や瞬発力、けがのしやすさ、栄養素の取り込みやすさなどと関連が深い。遺伝子を構成するDNAの塩基配列が異なれば、これらの能力に差が出ると考えられてきた。
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DNA配列の違いは塩基置換(多型や変異)と呼ばれるが、人口の1%以上に塩基置換が存在している場合を「多型」と言う。髪の毛や目の色の違いを生む差だというとイメージしやすいだろう。一方、変異は1%以下に現れ、病気に関わることもある。
身体能力と遺伝子に関する最初の論文が出たのは英国で、1998年だ。この論文では、登山家の優れた持久力に関連する遺伝子や、反復的な筋トレの効率を上げる遺伝子が指摘された。これをきっかけに各国で研究が始まり、2007年には欧州の研究チームが2000組の双子を調べ、運動能力の66%は遺伝によって決まると明らかにした。17年には国際研究グループも組織されている。
研究の手法は大きく二つある。一つは候補となる遺伝子を選び、働きを探るものだ。例えば細胞のエネルギーを作り出すミトコンドリアという小器官を増やす遺伝子に着目すると、ミトコンドリアを作りやすい人は、持久力に加え、瞬発力も増すことが明らかになった。二つ目は全てのDNAを解析するもので、一般の人とアスリートの違いを明らかにしようとする研究もある。
およそ25年間の研究で、スポーツに影響する可能性がある遺伝子多型は、250程度明らかになってきた。例えば「αアクチニン3遺伝子」には、RR型、RX型、XX型の3種類がある。前の二つの型は速い短距離選手になれる可能性が高い。しかし、XX型だと、どんなにトレーニングを積んでも100メートル走で10秒4~5の壁を破れないことが知られ、国際大会への出場は難しくなる。こうした個性が早めに分かれば、根拠を持って自らの意思で適した競技を選べるようになるだろう。
遺伝子多型によって、選手の意向を無視して選別することがあってはならないし、けがのリスクが高いから契約をためらうことがあってはならない。海外では、使い方のルールが議論されている。しかし、研究自体を中止するという動きは聞いたことがない。遺伝子多型とパフォーマンスとの関係について詳細なメカニズムが分かれば、効果的なトレーニングや食事の仕方が明らかになると期待されているからだ。遺伝情報を選別に使うのではなく、選手強化の道具として使うというイメージだ。
このためには、科学的根拠の精度をもっと上げていくべきだし、選手とコーチ陣が、遺伝子とパフォーマンスやトレーニングとの関係について深く理解をしていく必要もあるだろう。日本で研究を止めれば、海外選手との差が開いてしまうことも懸念される。【聞き手・渡辺諒】
乏しかった倫理面への配慮 竹村瑞穂・東洋大准教授
竹村瑞穂さん=本人提供
日本スポーツ振興センターは今年5月、アスリートの遺伝子解析研究について倫理的な留意事項をまとめた声明を公表した。私自身策定に関わり、有意義な声明であったが、少し遅かったと思う。本来なら2017年に研究を始める際に、倫理的、法的、社会的課題(ELSI)を明らかにしておくべきだった。
純粋にアスリートのパフォーマンス向上に貢献したい、と始まった研究だと思うが、この研究における特有の倫理的問題への対応や枠組みが無いまま研究が進められてしまった。アスリートの遺伝子の収集・解析は遺伝子を操作する「遺伝子ドーピング」に抵触しないため、特有の倫理的問題性が認識されにくかったのではないか。
ではどういった懸念があるのか。遺伝子情報からはある一定の傾向が分かるだけで、精度が高くない場合もあるのに、運動能力と遺伝子検査の結果に因果関係があるように捉え、自身の可能性や才能の有無を疑いもせず判断してしまう危険性がある。それはスポーツの自由参画を阻害し、努力の否定といった副産物も生じかねない。このような懸念に対応するため、まずはスポーツ界できちんと、アスリートや保護者、指導者を対象に、遺伝リテラシー教育を推進すべきだ。
アスリート発掘の手段として遺伝情報を用いることも、極めて慎重になるべきだ。とりわけ未成年に対して行うと、自由意志に基づく判断が保障できない。日本では考えにくいが、例えば胎児や乳児の段階から遺伝情報でスポーツの種目を選定し、金メダリストを作り上げていくようなことも、国家政策としてあり得る。
かつての優生学、過去の国家主導の優生政策は、優れた形質を持つ人間を増やし、劣った形質を減らす社会改良政策だった。対して現代社会の、個人の欲望に基づくものは「新優生学」として区別される。たとえば、自分の子どもを、「能力を高くデザインする」ことなどはその一例だ。
新優生学が問題なのは、ある目的のために人間が「手段化」されるからだ。例えばスポーツでは100メートルを9・0秒で走れなければ意味が無いなど、その価値に合致する存在を手段的に生み出すことにつながりかねない。人間は一人一人が持つ固有性にこそ尊厳があるはずなのに、それを揺るがすような考え方となる。
また、遺伝情報の解析に伴って深刻な疾患が発見される場合もある。そうした2次的所見を本人に告知すべきか否かなども考えておかなければならない。これに対しては学際的な連携も重要で、今後は臨床遺伝専門医や認定遺伝カウンセラーによる遺伝カウンセリングの体制を整える必要もあるだろう。
倫理は科学技術の発展を阻むものではなく、健全な形で発展させて社会に還元するために不可欠だ。アスリートの遺伝子研究も、ELSIに関する体制が整えば、けがの予防など、研究の幅を広げていけるのではないか。【聞き手・池田知広】
研究停止判断の説明が必要 為末大・オリンピアン
為末大さん
研究を停止する背景に何があったのか気になった。研究がふわっと始まり、ふわっと終わっているように感じる。
JISSはアスリートの選別や差別につながりかねない懸念があったとしている。研究者の間で十分に話し合われ、外部識者を交えた倫理委員会のような組織が適切な判断を下した結果であれば、その決定を支持したい。世間の研究に対する不安など漠然とした理由で研究を止めるのは、科学技術の発展を妨げ、研究者を萎縮させることにつながりかねない。
研究自体の問題よりも、意思決定のプロセスがどうなっているかを説明することが重要だ。もしプロセスに問題があったなら、プロセスそのものを見直す必要がある。適切なプロセスを踏んでいるなら、研究者に責任はない。
そもそも、今回の研究はアスリートのけがと遺伝子の因果関係を明らかにすることだったはずだ。アスリートにとっても関心の高い研究で、研究結果はアスリートのみならず一般の人々にも資する。
がんなどリスクの高い疾病を発症しやすいといった遺伝子を持っていることが分かれば、それは病気の予防や治療にも役立つ。こうした研究は社会の発展にもつながるはずだ。
幸運にも生まれつき優れた体力や筋力などを持つアスリートは、こうした研究に積極的に協力してもいいのではないか。海外には多数のオリンピアンを輩出する米スタンフォード大のように、アスリートが研究に積極的に協力しているところもある。
競技のパフォーマンスを高め、競技人生を豊かにするのが何よりも大切だが、アスリートだからこそできる貢献もあるはずだ。
仮に遺伝子検査で適性が分かったとしても、それだけで競技の向き、不向きは決まらない。重要なのは、アスリートたちが置かれた環境だ。
米国のジャーナリスト、デイビッド・エプスタイン氏は著書「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?」(早川書房)で、遺伝か環境かの二者択一論には意味がないとした上で、「アスリートのパフォーマンスの違いはつねに、トレーニング環境及び遺伝子によって決定されるのである」と結論付けている。
特定の遺伝子で、適性競技が決まるという考え方は幻想に近い。遺伝子に大きな期待を寄せすぎていないか。
私は現役時代にはけがに悩まされた。2000年シドニー・オリンピック前の合宿で、左膝を痛めた。ハードルを跳び越えて着地する時に膝に負担がかかり、痛みが段々と強くなった。
右膝が痛み始めたのは、それから約5年後。同じ頃から左のアキレスけんとふくらはぎも肉離れだったり、慢性的な炎症を抱えたりするようになった。年齢とともに体の柔軟性が失われるにつれて、着地の負担を受け止めきれなくなったのか。今でもあの時のけがの原因を知りたいと思っている。
未来のアスリートには、なるべくけがをせずに豊かな競技人生を送ってほしい。【聞き手・高橋広之】
懸念の声受け停止
東京オリンピックを契機にJISSが始めた研究「LEGACY2020プロジェクト」では国内のトップアスリート2000人以上の協力を得て遺伝子の解析を実施していたが、内部からの懸念の声を受け、2022年に大部分の研究を一時停止した。24年5月にはJISSの上部組織が「パフォーマンスを向上させる目的ではヒトゲノム・遺伝子解析研究は行わない」とする声明を公表した。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
福典之(ふく・のりゆき)氏
1973年生まれ。専門はスポーツ遺伝学、スポーツ生理・生化学。名古屋大大学院医学研究科修了。今回停止された研究プロジェクトに発足当初から参加していた。
■人物略歴
竹村瑞穂(たけむら・みづほ)氏
1979年生まれ。筑波大大学院人間総合科学研究科満期退学後、博士号(体育科学)取得。専門はスポーツ倫理学など。早稲田大助教、日本福祉大准教授を経て2023年から現職。
■人物略歴
為末大(ためすえ・だい)氏
1978年生まれ。元陸上選手。スプリント種目の世界大会で日本人初のメダルを獲得。執筆やスポーツ事業の活動も。主な著作に「熟達論」「走る哲学」など。