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毎日新聞2024/12/4 東京朝刊有料記事4470文字
半導体受託生産の世界最大手「台湾積体電路製造」(TSMC)が熊本県菊陽町に建てた第1工場の本格稼働が年内にも始まる。日本の半導体産業復活への期待から、周辺には関連会社も進出しバブル景気の様相を呈する。一方、「熊本の宝」とされる豊富な地下水への影響に懸念の声も上がる。TSMC進出は何をもたらすのか。
吉本孝寿氏
企業進出を住民の幸福に転換 吉本孝寿・熊本県菊陽町長
町にはTSMCの本社のある台湾を中心に、多くの外国人が既に来ている。飲食店の客足も増えて経済効果を押し上げるなど、目に見える形で影響は広がっている。
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その上で、TSMC進出の効果を町民に実感してもらうための施策が必要だと考えた。税収増を見込み、年間約3億3000万円かかる町内の小中学校の給食費と幼稚園・保育園のおやつ代(副食費)を、2025年度から完全無償化することを検討している。このような施策を打ち出せるのも財源があってこそで、約4万人の町として中長期的なチャレンジができるようになった。
世界的企業の進出で、町役場では扱う事業や案件が大きく増えた。町職員の視野が広がり、業務量も増えた。これを機に、役場としての業務の簡素化や効率化に取り組んでいる。全国的な傾向だが、現在と同規模の職員数を将来的に確保できない時代が必ず来るからこそ、紙資料をデジタル化したり、外部委託できる案件がないかを考えたり、業務改革のための研修などにも力を入れたりしている。
TSMCは地元に溶け込もうとする姿勢も示している。今夏、町と熊本大などが連携して発足した住民の健康長寿に関する研究プロジェクトは、TSMCの財団から支援を受ける。経済分野以外の面でも関わっている一例だ。
前向きな改革や期待の裏で、悩みや課題もある。工場周辺を中心にした渋滞対策が喫緊の問題だ。国や県、近隣の自治体と連携し「異次元のスピード」での広域的な道路ネットワークの整備を進めている。併せて公共交通機関の充実や、町内を路線が通るJR豊肥線の複線化などでの輸送力強化について、国や県、JR九州には引き続き要望していく。
また、町民の一番の関心事は地下水の保全だ。TSMC側には取水量など情報の共有を求めていきたい。現時点でも企業努力はしていると感じているが、本格稼働していく上で環境保全は引き続き、重要な課題になる。
人口減少や高齢化、過疎化が顕著な地方では労働人口や税収が減少している。現状の維持でさえ難しい中、企業の進出は雇用を生み出し、経済効果を上げ、地域活性化の起爆剤となることが期待できる。世界的企業であればなおさらで、まちづくりの前向きな議論にもつながる。こういったことこそ、世界的企業が地方に進出する意義だろう。
立地に伴う弊害など、さまざまな不安や悩みももちろんある。だが、そうした悩みを解消し、住民の幸福度や満足感に転換して企業進出の意味を町民に実感してもらうことが我々、行政の役割だ。
ただ、町として際限なく開発や企業進出を推し進めるという考えではない。
企業側の要求に応えていく必要もあるが、農業・工業・商業のバランスが大事だ。工業地と農地を明確に分けて町民に方針をしっかりと示し、農地や地下水など町として守るべきところは守っていくつもりだ。【聞き手・山口桂子】
中村和之氏
人材集中エリアへの可能性 中村和之・九州工業大マイクロ化総合技術センター長
かつてトップを走っていた日本の半導体産業は2000年代以降、海外勢に押され、半導体原料のシリコンから「シリコンアイランド」と呼ばれた一大拠点である九州でも、一時期はIC(集積回路)生産額がピーク時の半分程度にまで減った。それでも、九州にはスマートフォンカメラに使われる「イメージセンサー」に強いソニーグループや、製造装置メーカーの東京エレクトロンなど世界的シェアを維持してきた企業の拠点があり、TSMC進出につながった。今や関連企業が多く進出し、潮目が変わっている。
当センターは1994年に開所し、半導体の設計から製造、完成品の機能評価まで全工程を体験できる全国的にも珍しい施設だ。人材育成セミナーを開催しており当初は年1回程度だったが、現在は年20回程度に達する。大学の「お荷物」扱いから一変、セミナーなど自前の収益だけで運営費をまかなえる水準になった。受講者も技術者だけでなく商社や金融、不動産など他業種にも広がっている。
セミナーの需要増の背景には、最先端の工場では半導体製造の微細化や自動化が進み、技術分野も細分化されて、一人の技術者が携われる領域が限られていることがある。半導体産業を引っ張るイノベーション(技術革新)を起こすには各工程の境界を理解し、全体を最適化できる力を備えることが必要だが、今は全体を学ぶ機会や場も無くなってしまった。その点、センターの機器は最先端ではないが、だからこそ、自分の目で見て全工程を学べる。
業界の課題は人材不足だ。特に30~50代前半が育っていない。リスキリング(学び直し)や大学の社会人博士制度などを利用し、一部を高度人材化していくことが考えられる。一方、50代後半から60代は実際の業務を通じて幅広く経験している。この世代を定年退職させずに活用していくことも重要だ。
20代以下については状況が良くなっている。リストラの影響もあってイメージが良くなかった半導体業界が、九州ではTSMCが高待遇を打ち出すなど、魅力ある業界として人気が集まり始めている。私が大学で受け持っている半導体の講義も、かなりの学生が選択してくれるようになった。ただ、理系を選ぶ人材自体が少ないので、子どものころから興味を持ってもらえるような取り組みも今後、力を入れる必要があるだろう。
九州は30年ほど前の最盛期でも半導体の設計などの拠点は無かったため「頭脳無きシリコンアイランド」と言われた。将来的には九州から設計ベンチャーなどを生み出すようにしないといけない。
九州は、次世代半導体生産を目指す「ラピダス」の拠点ができる北海道などとは異なり、既に実績のある企業が多数存在している。サプライチェーン(供給網)にしても、層の厚さが違う。
そのため、半導体産業が安定した成長産業として確立・認知できれば、人材の供給につながるだけでなく、全国から優秀な人材が集まるエリアになれる可能性がある。【聞き手・植田憲尚】
市川勉氏
地下水を維持し守る契機に 市川勉・東海大名誉教授
熊本県では、熊本市を含む11市町村約100万人が地下水を水道水として利用する。この規模で地下水を利用できるのは全国でも最大だ。水道水を飲むことができる国も少ない中、世界的に珍しい豊富な地下水にTSMCも注目したのは間違いないだろう。
県などの試算では、阿蘇山火砕流の堆積(たいせき)物などで構成される熊本の地下には、琵琶湖の約3・2倍に当たる約871億トンの水が貯留していると推定されている。うち地上付近にあって通常使われている地下水が約100億トン、更に深いところに約771億トンがあると見込まれている。
豊富な地下水に注目し、既にサントリーやソニーといった国内企業が県内に工場を構えている。河川水を浄化するよりもコストを抑えて利用できる地下水は、企業にとってメリットが大きい。一方、半導体工場は大量の水を使うため、地下水が枯渇しないかという不安も上がっている。
TSMCが公表した取水量は第1、第2工場で計約800万トンと机上の計算では枯渇しない。ただ、関連企業も合わせた採取量は1000万トンを優に超えると考えられる。2020年度の工業用取水量は約2270万トンで推移していたため、大きく増えればバランスが崩れる恐れもある。
また、TSMCの工場が立地する菊陽町や隣接する大津町などの一帯は阿蘇山のふもとにあり、水田・畑地帯が広がる。その地下は水がたまりやすい構造となっており、畑地に降った雨水や水田から浸透した水が地下水となる。すなわち、半導体関連企業が集積する周辺の水田地帯は地下水を作り出す「心臓部」だ。本来は工業地帯にすべきではないため、地下水量の変化を見極めていく必要がある。
熊本の地下水は長期的に見て00年まで減少していた。水田が減反政策や都市化、農家の担い手不足などで減ったためだ。そこで04年から県などが地下水を保全する取り組みを始め、私も事業の研究・調査に関わってきた。
その一つが農地に水を張る「涵養(かんよう)」を利用した取り組みだ。農地の面積などから浸透した地下水量を算定し、企業が取水量に応じた金額を拠出。涵養した農家には、農地の面積に応じて水張り代が支払われる仕組みだ。
24年度にこの取り組みが見直され、水張り代が2倍近く上げられ、冬季の涵養も始まった。県条例も改正され、企業に課される涵養量は取水量の1割だったが、改正後は取水量と同量が義務付けられた。これらの成果を分析・評価していく必要がある。
排水でも懸念がある。熊本は公害の原点とされる水俣病を経験した。決して同じ過ちを繰り返してはならず、問題が起きた時の仕組み作りをすることは当然だ。企業の性善説に立つのではなく、違反を前提に工場の排水や処理水をチェックする体制を作ることは行政の役割であり、責務だ。企業側も情報を共有・公表していく責任がある。
熊本の財産である地下水をどう維持し守るのか、TSMC進出を考える契機にしていかなければならない。【聞き手・山口桂子】
半導体製造の最大手
半導体受託製造の世界最大手。熊本県の工場はソニーグループとデンソーも出資する子会社「JASM」が運営する。年内の稼働を予定し、隣接地に第2工場建設も控える。これまで日本企業が技術的に遅れ、デジタル機器の頭脳ともいえるロジック半導体を生産。自動車や画像センサー向けに供給する。第2工場は人工知能(AI)関連機器向けなど更に高性能なロジック半導体を生産する予定。
「論点」は原則として毎週水、金曜日に掲載します。ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp
■人物略歴
吉本孝寿(よしもと・たかとし)氏
1967年生まれ。熊本県菊陽町出身。九州東海大工学部を卒業後、果樹園経営から町議に。2期目途中で2018年町長選に立候補し落選。22年町長選で初当選し、現在1期目。
■人物略歴
中村和之(なかむら・かずゆき)氏
1963年生まれ。九州大大学院修了。88年に日本電気(NEC)入社。2001年に九州工業大、18年4月から現職。専門は半導体LSI(大規模集積回路)の設計・開発。
■人物略歴
市川勉(いちかわ・つとむ)氏
1952年生まれ。東海大大学院修士課程修了。専門は地下水学、水資源学。熊本の地下水の目安となる、湖の湧水(ゆうすい)量を20年以上にわたり調査。日本地下水学会所属。